第三章 大内氏の妙見社

30 ~ 43 / 90ページ
 琳聖太子創建であるが、大内正恒、茂村の時代になり、大内氏と妙見社の結びつきを人々に明確に示すことになる。
 ①『大内氏実録』によると、大内弘幸を世家第一にあげている。大内氏の第十六世にあたる。
 この家系図は琳聖太子を第一世として、二世は正恒、三世は藤根、四世は宗範、五世は茂村とし、六世弘真、七世貞長、八世貞成、九世盛房となり、九世盛房の代にして周防介称大内介として、また盛長(石田摂津守)十世弘盛(周防椎介、称大内介)は、元歴年中(一一八四)平家追討之時為功労賜長門国司となり、名実ともに大内氏が世に出た時期である。
 公けに妙見社のある鷲頭荘が世に出るのは、天喜五年(一〇五七)に周防国の国司であった藤原康基が仁和寺の蓮華寺建立の為周防国鷲頭庄を寺領として寄進した。それ故周防堂と呼ばれた。②
 長承四年(一一三五)、周防の国司、藤原憲方は、妙見菩薩が降臨したという伝説の地、鷲頭の庄を待賢門院の法金剛院の新御堂北斗堂建立に寄進した。③
 長承四年(一一三五)三月二十七日、待賢門院(中宮璋子)の御子本仁(覚法法親王)、御年七才が、仁和寺北院に御入室あらせられた。
 この日、鳥羽上皇も仁和寺に御幸せられ、覚法法親王の御勤任せられた待賢門院の御願の北斗堂の供養に臨まれた。待賢門院はその日に法金剛院の新御堂の方へ渡られた。(中右記)と伝えられている。
 また長承四年(保延元年=一一三五年)八月一日は鳥羽殿より法金剛院に還幸せられた待賢門院が十日まで北斗法を修し給う。(『長秋記』)④
 多々良大内氏が世に出るのは仁平二年(一一五二)八月一日付の京都上賀茂旧社家鳥居に多々良の名が列ねている。これが多々良が文献に現われた始めである。⑤
 ⑥その後仁安二年(一一六七)罪にとわれ十六盛房は常陸国その子弘盛は下野国、一族鷲頭三郎、盛保は伊豆国へ、同忠遠は安房国に流罪に処されたのである。平家の全盛の時代 如何なる罪科に依るか知れていない。
  「安元四年(一一七八)九月二十日~十月四日まで、禁裡にて祈願、法勝東寺長者御持僧たる大僧正禎喜に依って御祈が行われ、十月四日結願し、五日の暁、〓惑大微が出たから法顕顕著なりとて、諸国の流人は恩赦に浴し、多々良一族も召還された。」⑦
 日月星辰の運行や天空の現象が直に人事に開速照応するものと信じられ、令制中務省に陰陽寮あり、天文暦数や風雲の気色を候する掌どり、天文を観測点候し、星一の運行が天変と認められ、政治上に大なる異変を及ぼすものともなった。
 多々良一族は、この奇しき星一つの運り合せに依って、意外の僥倖を得て本国に還ったのは、源頼政、頼朝等諸国の源氏が以仁王の令旨を奉じて、兵を挙ぐるに先だつ二年前であった。盛房はやがて周防介に任じられ大内氏と称し、大内氏の権威国衛を圧し、その子弘盛は元暦年中(一一八四~五)中に平家追討の功により、周防権介となり大内氏と称し長門国をいただいた。
 弘盛の子、十一世満盛は源氏に属することにより周防権介に長承元(一一八二)暦中になる。
 弘盛子茂保(鷲頭家祖)も但馬守となり、鷲頭三郎となった。
 文治三年(一一八七)二月、地頭が都濃郡内にて横暴を働いたのを鎌倉へ訴えた訴状の連署中に権介多々良とある所を見ると、それは弘盛、満盛の時代であったであろう。
 十一世大内満盛の時代に、妙見社宮殿再建と記されている。⑧
 多分想像してみると流罪が許された事の感謝の意味で鷲頭庄の妙見社宮殿を再建したのであろう。
 正安二年(一三〇〇)、この頃、鷲頭庄は仁和寺周防堂の所領となる。⑨(『仁和寺諸院家記』)
 元弘・建武(一三三一~一三三七)鷲頭豊前守長弘、大内家の長老として忠勤を励み、後に足利尊氏に属して周防の守護となり、一族皆北朝となる。⑩(『梅松論』)
 一三三六年(建武三・延元元)足利尊氏は直家摂津に敗れ、大内、厚東の兵船にて西奔する。周防大将大島兵庫義政、守護大内豊前守長弘、長門大将斯波高経、守護厚東武実と定める⑪(『大内氏実録』)
 一三三六年四月二十六日、足利尊氏攻上り、周防国笠戸浦着陣(鷲頭庄の前の島)⑫(『南方紀伝』)
 暦応二・延元四(一三三九)この頃、鷲頭庄、山田、久保市、来巻、河内、大河内、東豊井、西豊井、生野屋、末武と、鷲頭氏豊前盛長弘の勢威盛んで宗家大内氏をしのぐ勢いであった。
 観応二・正平六(一三五一)この年、大内弘世は、常陸親王を山口に迎え、南朝方になり、周防、長門、石見守護となる。
 観応三・正平七年(一三五二)二月十九日、大内弘世、鷲頭庄に攻め入り、白坂山至り、北朝方散位鷲頭貞弘(長弘の三男)、内藤肥後彦太郎、藤時等と戦う。二十日また戦う。
 四月九日、大内弘世、鷲頭散位貞弘を攻めに十九日に至る。八月三日、大内弘世、鷲頭貞弘を討つ、鷲頭弘直(長弘の二男民部大輔周防守護)、大内弘世に降り、鷲頭美作守康弘(長弘の長男但馬権守弘貞の子)下松で自害。
 文和四・正平十年(一三五五)大内弘世は、大内氏一族を統一し、鷲頭庄の妙見社に七坊(中坊、宮の坊、宝樹坊、室積坊、宝蔵坊、宝泉坊、閼伽井坊)を建立し、また、下宮を赤坂の地に建立した。⑬(『鷲頭山舊記』)
 応安元年(一三六八)三月十七日、五星出現ス。
  「三月十七日の五更の天に、五星月を囲んで出現し、色を變ずる事三変して、唯一時が間に失せ去りぬ…天子も是を御覽ましまし、叡慮更に穏ならず…五星出現慶賀の為に。急ぎ子の日を撰んで、太山府君星供を行せ給ひける。多々良弘正(陶家)を召され、北辰尊星供を行ひ給ふ…抑も此北辰尊星供と申すは、百済国の王法にて、皇極天に継ぎ、人道を立つる所の大禮也、本朝に始めて是を行はるる事、推古天皇の御宇定居元年辛未、馬韓の齊明王第三王子琳聖太子来朝在って、王法興隆より爾来、子孫多々良に良相継いで之を行ふ、毎月二月十三日、新に北辰尊星を天降す事一千歳なり、是吾朝神国の霊験なりとて、毎度、是を行はせ給ひける。…北辰妙見菩薩忽然と天降り給ひて、光明赫奕と現じ給ふ、御正體見えざれど、天地四方輝き…不思議なれ、殿裡の雲客、一場の貴介も、斯る瑞験に魂をくだかれ、感応舌を振ひ給はずと云ふ人更になし」⑭(『後太平記上巻』第二 p14)
 また、国土安全御祓祷之事に大般若経轉読、八敵退散の法が行われた。
  「南都の圓成僧都は大威徳の法。東寺の證快法印は金剛童子の法、天地災変の祭は賀茂の行国、天胄地府の祭は卜部刑部卿兼敦、太山府君星供は源盛衡、七佛薬師星供は多賀康貞、北辰尊星供は多々良弘政也、各天下安全八敵退散の懇祈、三日三夜丹精天を動し祈られしかば、如何なる天魔鬼人なり共、など豈降伏せざらんや、おろそしかりし行粧なり、中に霊験新なりしは、北辰尊星供の檀の上には妙見菩薩の光を現じ給ひて、四月朔暮の五更の天に天狗流星南方を差して飛行きければ、祈りは成就したりとて、急ぎ霊檀をぞ破られける、まあ感応肝に銘じ、怪しかりし粧ひ也」(『後太平記上巻』)
 康応元年(一三八九)足利義満、巌島参拝の時下松に立ち寄り大内義弘の接待をうける。⑮『鹿苑院殿巌島詣記』には康応元年(一三八九)には、十二日「くだ松といふとまりにつかせ給ふ、大内左京大夫はここにぞまいりためる、御旅のかれ飯みきなどさまざままいる、あま乙女しつはたをらぬくた松も、浪の白糸よりやく覧」
 また⑯『鹿苑院西国下向記』には
  「やがて其夜大内を立て夜半ばかりに下松にはせつく…其夜宮洲御所へ御着あり、…松の一むら(周防国佐波郡)ある所を車つかと申ならはせり、是は百済国済明王の第三の皇子琳聖太子、生身の観音大士を拝し給へきより祈念ありしに、告ありて日本へわたり給ふ、推古天皇御宇なり、則聖徳太子に相着し給て、たかひに法花の妙文にて意趣を通しましまして願望成就せりと也、琳聖太子崩御の後、車をおさめられし所とて車塚といへり、このあたりを多々良の浜といふ、来朝の時、船着岸の所は貴志津(佐波郡)といふ、この車塚より十町ハかり東也、船よりをり給て幕を張たる所とて、今も幕のうちといへり、車塚の社頭を八多々良の宮と号す。御正躰三面あり、一社は妙見大菩薩にて御本地薬師如来と申す。一社は聖徳太子にて御本地十一面と申す、一社は琳聖太子にて文殊師利菩薩と申す…」
 応永元年(一三九四)十月大内義弘、明徳の乱(山名氏清、満幸、足利義満に叛く)の戦功により、紀伊和泉の両国を賜り、同息新介弘茂には大和宇多郡を宛行はれ、次男修理大夫弘正は、小林と刺違へて父兄の難を助けしば、其子藤丸、生年二歳に成りしを俄に京都に召されて、加賀国中典の庄を下され、冷泉家の家督に居ゑられける。
 大内義弘、南北朝の和平の使者として明徳三年九月二十日吉野にむかい、還幸の後、神器を譲るべき由勅をいただき京都に帰る。十月二十八日、無事三種御歸洛、南帝は大覚寺に穏座し、その後小倉の麓に御庵を結び、年月を送らせ給う。⑰
 ⑱大内義弘は鷲頭庄の妙見社に五重塔、仁王門を寄進して武運長久を祈る。大内義弘は応永六年(一三九九)、朝鮮国王定宗に旧百済国の一部の土地を、百済国高氏の後と称し、求める。
 義弘は祖琳聖太子が百済の皇子であったことによって、韓土に限りなき懐かしさを持ち李朝に対して、極めて信愛の情で臨んだ。
 大内義弘は防長石豊筑紀泉の七洲の守護を兼ね、義満の信任厚かったが南朝をあまりに無視し、北朝方に併合せられた姿となり、義満は一向に和議の条約を実行しなかったので大内義弘と不仲になり応永の乱がおこり、大内義弘は堺で戦死する。
 大内弘茂、楼門を閉じてまさに自害せんとしたるとき、平井道助弘茂の刀を押えて、これを止め、強いて降を乞わしめ、相従う者も同じく降人に出でた。ここにおいて、師成親王は周防の方へ落ちさせ給い、楠木氏の二百余騎は大和路から、菊池氏は西国へと落失せた。義満は味方の捷報に胸撫でおろし、降将弘茂の罪を赦し、義弘旧領の和泉、紀伊、石見、豊前、筑前の五カ国を削って、周防、長門の二カ国を賜う。義弘は盛見に周防、長門をまかしていたので、弘茂は兄盛見と戦うことになり、弘茂破れ盛見が応永九年(十四十二年)、長門、周防の守護となる。
 大内盛見は大内家氏神氏寺たる氷上山上宮下宮と氷上山興隆寺を焼失したので、応永十一年(一四〇五年)二月に落慶法要が営まれた。
 ⑲大島の『宮ノ坊文書』の中にこの時代の妙見さまの次第が残っている。
  「性当歳永享八年(一四三六年)
  廻来日神は、只今万悪事遠去万福来、銀に花開金に実成吉日の、吉時を撰び定て申せ令申さ給ふ、其れ南の閻浮提大日本国豊葦原水穂国山陽道周防国、郡濃郡鷲頭庄河内郷、此峯に御重跡を垂れ座す北辰妙見大菩薩の御前に、毎に年吉日良辰撰定めて令御座給ふ、千七百善神王本師定光仏の其数
  妙見大菩薩 日光菩薩 月光菩薩
  大吉祥天 梵王天王 司命天曹
  導師星 五方星 八方星
  王帝星 六甲将軍 摩醯首羅
  天夜叉 地主天 弁才天
  四方天王 四方七宿 織女星
  大功徳天 地主天 帝釈 菩薩化王化
  善神王七星 左右威儀星 明星
  歳星佰鬼水星 夜叉神王 宗星
  堅牢地神 牽牛星 鎮星 幸中星
  解脱星 鬼星 閻羅星 大将軍
  元量星 天一神北辰星 王龍王本師星
  土公五躰 阿修羅天 迦楼羅王御使
  当所明神 十二神 護法地主 山王
  火水神等乃毎慈悲の広前令しめ驚し申さ給ふ事は御祭の料田一町令め奉ら置き於天君に給ふ、因茲恒例有限七筒日の間、沐浴精進信かを為す宗、幢幡寿命香花灯明御供臼妙の御弊、金の散米、種々の荘厳を相具え、令奉供也於宝君、清浄如法の礼奠なりと令玉ひ納受せしめ玉え、喜次で貴感応には先聖朝安穏天長地久御願円満せしめ給へ、関白殿下、左右丞相、大中納言、参議、公卿、文武百官、六十余洲の国宰郡領庄々安穏に持たせ給へ、別は当国守護息災増福に守護せしめ給へ、并に領所地頭息災延命恒受快楽守護せしめ給へ、并次第の人民等安穏泰平に一々所求悉地皆令満足し玉へ、庄内万民百姓安穏泰平保たせ給へ、殊に別は信心大法主息災延命、一家境界、安穏泰平守護せしめ給へ、乃至次の仕人の各々首々内々家内安穏泰平、中馬六畜生益巨多、一々善願成就獲得の故に供益如し石の、有縁無縁、道俗男女、貴賤上下祈求悉地皆令満足之故、只今慎々恐々申、重て驚臼す、今年御申以清浄潔はくの志を、奉進せしめる所に、宝の君仰下させ給ふ御言如法清浄の勤行也、知見納受させ玉ふ、一荘刀称司并殊に別は信心の大法主等力首の上の塵をは万方に払へ却(しりぞけ)心中所求悉地成就獲得せしめ給て喜の広平を賜り下す、
      永享八年二月日(一四三六)
 応仁元年(一四六七年)大内政弘は鷲頭庄の妙見山に狩猟禁制をひいた。
  ⑳第十六条、妙見山狩猟禁制
  法泉寺殿 禁制
  周防国都濃郡鷲頭庄妙見山
  右、甲乙人等、当山にをいてかりの事、菟苗田狩等に至て、永く禁断せしめ畢んぬ、自今巳後、若此制符をそむき、違犯のやからあらは、罪科に処すへきの状如件、
      応仁元年(一四六七年)四月二日
        法泉寺殿 多々良朝 御判
 文明十年(一四七八年)十月十日
  妙見社下宮上宮終了、鷲頭治部小輔弘賢注進状21(正任記)
 文明十八年(一四八六年)十日
  下松浦より桂木宮に移り、山頂に上宮あり、山なかばに下宮有、一二三伝殿、中堂普賢堂、楼門等儼然(大内多々良氏譜牒)
 長享元年(一四八七年)には大内氏壁書には妙見信仰に対する禁制のおふれが出される。
  第一二四条、鷹餌鼈亀(たかのえさすっぽんかめ)禁制の事22
    鷹餌鼈亀(たかのえさすっぽんかめ)禁制の事
  鷹餌の為に鼈亀并に蛇を用うべからざるなり。既氷上山の仕者として儼然たるのところ、其の憚をぞんぜざる族は、忽ちに神罰遁るべからざるなり。自今以後においては、堅固に制止を加うるところなり。
  鳥屋飼以下の時、禽獣ばかりを以て飼うべし。飼い得ざる者は、鷹所持すべからざるなり。若し猶此の禁制に背き、鼈亀を求るの族有らば、侍に至りては者恩給を収公せらるべきなり。所帯無き者は則ち逐放せらるべきなり。凡下の輩に至りては、見出し聞き出しに随い、即時其場において、或いは其身を留置し、或いは事の体に随い、誅伐すべきの由、仰せ出させるところなり。壁書件の如し。 長享元年(一四八六年)九月四日
 妙見さまの使者として、おつかえの亀、蛇を大切にするという徹底した戒めである。
 この当時の妙見信仰は神仏一体で奉行されていたことが、氷上山妙見下宮遷宮次第をみるとよく理解できる。
  23周防国吉敷郡氷上山下宮御遷宮次第
   御出仕
   (大内政弘)
  大殿様真[正]
   (大内義興)
  殿様義[秀]
   当山奉行問田大蔵少輔弘胤
  本社遷幸
  神殿行導 音楽 千秋楽
    御案 法花堂 宥汁
       惣持坊 信祐
  次神躰御安座
  次着座讃
  次開眼
  次御供 伝供 四智讃
   (後筆)
   「次上宮御供三膳、則御戸開之」
  次弊帛
  次祝言
  次幣御頂戴 次千秋楽 次惣礼
  次楽 此時登高座
      白柱
  次着座讃
  次行法 先方便等
  次唄師
  次散華師 別当尭
  次表白 行法次第如常
  次諸天讃 除揆遣段
  次甲四智讃
  次仏布施
  次廻向方便
  次楽 蘇香急
  次伽陀 和光同塵
  次楽 青海波
  次法施 九条錫杖、十如是、自我偈、
       心経
  次楽 越殿楽
  次伽陀 願以此功徳
  次退散楽 大平楽
       明応四年(一四九五年)
 以上神仏一体の作法が見事に表現されている。大永三年(一五二三年)24大内義興、妙見社上宮を再建する。
 前征夷大將軍、足利義稙(たね)は年久しく周防国に蟄(ちつ)し給ひて、大内義興の力にて再び將軍に復任し、義興は左京大夫従三位に叙任せられ官領職につくことが出来た。
 舟山合戦の時、義興は冑の天辺に金像の妙見菩薩を立て、そして北辰尊星の幡を立てて戦い、新將軍義稙の時代にした。
 25弘治二年(一五五六年)四月十八日、毛利軍は長く続いた大内氏の鷲頭庄を攻め、大内氏は破れた。その時毛利氏は大内氏の御霊をしずめる為、下松妙見社で祭祀を行う。
 弘治三年(一五五七年)四月三日、大内義長、長府長福寺で自害、防長二州は毛利氏の領有となる。
 26永禄二年(一五五九年)妙見社宮司坊を改め鷲頭寺となり、鷲頭山を妙見山と称す。
 これより以後、毛利氏の支配による妙見山鷲頭寺の時代に入ることになる。
 (注)
 ①大内氏実録 著者 近藤清石 発行所 マツノ書店
 ②仁和寺諸院家記(顕證尊寿院本) P34
 ③仁和寺史談 著者 出雲路敬和
 ④仁和寺史談 著者 出雲路敬和
 ⑤防府市史上巻 発行者 防府市教育委員会 P197
 ⑥防府市史
 ⑦防府市史(玉葉。醍醐雑事抄)
 ⑧鷲頭旧記
 ⑨仁和寺諸院家記(仁和寺の諸院家(御室四十九院)宇多天皇から後の天皇皇子皇女の御願により建立された堂塔院堂の歴代住持の記録)
 ⑩梅松論 歴史物語 (貞和五年1349年)正平七年(1352)~嘉慶年間(1387~89)とする説(承久の乱から正中、元弘の変、南北朝の動乱を叙べ、新田義貞の金崎城が陥るまでを扱う)
 ⑪大内氏実録
 ⑫南方紀伝(後醍醐天皇元弘元年(1331年)から後花園天皇長禄二年(1458年)に至る間の南北朝を中心とする漢文編年体の史書)
 ⑬鷲頭山舊記
 ⑭後太平記上巻第二 通俗日本全史 発行所 早稲田大学出版部
 ⑮鹿苑院殿厳島詣記(慶応元年(1389年)三月足利義満の安芸厳島社詣に隨行した九州探題今川貞世の記した和文紀行文)
 ⑰後太平記上巻 第二 P164
 ⑱鷲頭寺舊記
 ⑲宮ノ坊文書 山口県史 資料編
 ⑳大内氏壁書を読む 著者 岩崎俊彦
 21下松市史
 22大内氏壁書を読む 著者 岩崎俊彦
 23山口県史資料編 山口県編 山口県 中世史料 興隆寺文書
 24鷲頭山舊記
 25下松市史
 26鷲頭山舊記