第四章 江戸時代の妙見社鷲頭寺

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 元禄八年(一六八〇年)に撰述された『陰徳記上』①には巻之第七『大内家先祖之事』について
  然に天是を〓(ひき)給けるに、同十七年巳、周防国都濃郡鷲津之庄青柳の浦に大星有り、降って松の樹上に在り、而七昼夜赤々「然として絶ず。国人等奇異の思を成ける処に則巫人に託して曰、異国の太子我朝に来降し給、其の擁護ため北辰を下降すと有しに依って、其処の名、青柳の浦を改め下松と号しけるや。祀星をば妙見尊星王大菩薩の社と奉称(たてまつしょう)けるか、其后下松之浦より桂木宮に移し給う、今の宮の洲山嶺に有上宮半に有下宮一、二、三ノ殿、中堂、普賢堂、楼門等厳然たり。」
 又、寛永五年戊子(つちのえね)歳(一七〇八年)の『鎮宅霊符縁起』②には
 「第十五:周防国氷上山降臨之事」
  凡そ當山星堂開基の事は琳聖太子五代孫茂村朝臣氷上山田に移されける太子は百済国の聖明王第三の皇子日本に来朝の事は、推古天皇五年三月二日卿相雲客殿上人百司百官百餘人を相具し周防国多良濱に著(つき)玉う時不思議の霊験あり、其の由来を委(くわし)く尋子見れば、推古天皇三年乙卯(きのと)九月十八日に當山国郡濃郡鷲頭の庄青柳の浦に大星落て松樹の上に留って、七日七夜赫々と輝き玉ふ、国民おどろき騒いで奇異の疑慮をなす、于時に巫人(かんなぎ)に託して宜はく吾は是れ北辰妙見なり是れより三年を經て三月二日に百済国の聖王日本に来朝す、太子を日本に留めて王法を修行し国家を統べし。是を聖徳太子に告ぐべしと託し玉ひて天に帰らせ玉う、国民やがて是を注奏す是に依って、勅使兼日此處に下って相待處に龍頭鷁首の舟を推寄たり王使御迎の由を申す、是より長門国大内の縣に御所をしつらいて待奉ると奏す、琳聖太子叡感斜ならず長門の縣に暫く穏座し玉ぅ其の後鷲頭山に星宮を建立し九月十八日を祭祀の日と定め玉う」
 天保十一年(一八四〇年)の『妙見霊応編』③には
 「後太平記を見たとき、「昔、人王百六代後奈良院の時に、鎮西の探題、大内多多良朝臣二位兵部卿義隆という人があった。その先祖は百済国の聖明(せいめい)王第三の王子琳聖太子(おうじりんしょうたいし)といった。時に推古天皇三年、御乙卯(きのとう)の九月十八日、周防国都濃郡鷲頭庄(わしずのしょう)青柳の浦に忽然(こつぜん)として天より輝き渡った大星が降りて、松の木の上に止まって七日七夜満月のように光を放たれた。国中の諸民は大変驚き不思議に思った。そんな時、巫人(かんなぎ)に託して言われるには「私は北辰妙見尊星である。今より三年後の三月二日、百済国の琳聖太子がこの国おいでになる。このことを聖徳太子に告げて、「その琳聖太子をこの国に留めなさい」と言われた。そこで、その旨を京師にいき奏上した。推古天皇は大変悦びなさつて、同五年三月二日、卿相、雲客百余人を周防の多々良浜につかわしなさつた。その時、琳聖太子は龍頭鷁首の舟に乗って多々良浜にお着きになった。そして長門国大内の県に宮殿を設けて、そこに住みなさった。よって琳聖太子は鷲頭山に宮殿を造って、北辰妙見星を勧請し星の宮と名づけて。祭祀の日を九月十八日と定めなさった。」
 『後太平記』には、北辰星拝、大内家風俗乱事、等々数多く、琳聖太子と妙見さまの事は多く語られているが、周防国都濃郡鷲頭庄のことは書かれていない。多分、陰徳太平記や、大内家譜や大内盛衰記等等を頭に置き、妙見霊応編は書かれたものと思われる。
 下松妙見社の大星降臨日は、何説もあるわけである。『妙見霊応編』と『鎮宅霊符縁起集』は、妙見社の降臨日と同日である。推古三年九月十八日である。
 陰徳記(いんとくき)の大星降臨の日は推古十七年で月日までは記してはいない。これは大内家譜、や大内盛衰記とおなじである。陰徳記は一六九五年(元禄八年)に書かれ、鎮宅霊符縁起集は一七〇八年(宝永五年)に書かれ、妙見霊応編は一八四〇年(天保十一年)に書かれている。と言うことは多くの資料を参考にして書いたであろうことは想像できる。降臨の日はあとにおくことにする。まずは江戸時代の妙見社については身近な資料を参考ににしながら書くことにする。
  大内氏の氏神である妙見社は大内氏の滅亡により少し寂れるが、大内氏を滅ぼした毛利氏は、中国地方のもう一方の大名尼子氏を滅ぼし、中国地方の全土の覇者になった。
  毛利元就は永禄四年(一五六一年)尼子氏滅亡の宿願によって妙見社の社殿を修理し、御神輿三体と大太刀、木馬などを寄進するなど妙見菩薩に対する信仰は大内氏に譲らず、次いで七坊の一つである宮寺坊を毛利元就の命によって、鷲頭寺と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現することになる。
  その後、毛利元就は永禄九年(一五六六年)尼子義久を出雲富田築山城にて攻め降すのである。
  御寄付願書には
   一、お輿 参体 一、御太刀 一、木馬
   干時永禄四年辛酉(かのととり)天 社奉行大庭加賀守平賢兼
  奉新造 防州都濃郡鷲頭妙見山 御輿 三丁
   永録四年(一五六一年)幸酉九月十三日
   護持大檀那 従五位下右馬頭大江元就朝臣
   並備中守大江朝臣降元、武運長久国家安全也
    宮之坊宥樹。宮司坊源嘉。寶棟坊宥。寶樹坊尊就。當山奉行弘中丹後入道道怡
    大工 藤井飛騨守盛直。金物師後藤入道。塗師長尾源兵衛秀勝④
 また永禄十二年(一五六九年)にも、毛利氏は上宮の再建を行っている。その御棟札記⑤には
   奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇
   御遷宮導師、宮司、権小僧都源嘉、大檀那毛利陸奥守従四位上行大江朝臣元就並大江輝元
    為武運長久国家安全祈所
    永録十二年(一五六九年)己巳(つちのとみ)十二月十五日
    衆徒中之坊宥寶。宮之坊尊就。寶樹坊尊秀。
    寶積坊宥善。寶蔵坊尊快。寶泉坊宥厳
   社奉行、大庭加賀守賢兼(大内氏の家來で後毛利氏につく)
    修造奉行 弘中丹後入道道怡
      大工飛騨守藤原守直、鍛冶 治郎左衛門
      また上宮虚空蔵菩薩の玉殿裏札記には防州鷲頭寺上宮御本地虚空蔵奉造立開眼
      宮司坊 權小僧都 源嘉
      大檀那 大江朝臣元就・輝元
      千時永禄十二年(一五六九年)己巳(つちのとみ)十二月十五日
と記してある。
 妙見社鷲頭寺はこの時「八箇国御時代分限帳⑥」によれば、九十石毛利輝元から与えられていた。毛利氏によって再建された妙見社は慶長十三年(一六〇八年)二月六日夜火災が起きて、上宮を始め、中宮拝殿、仁王門、五重の塔、七坊、寶蔵、経蔵まで悉く焼失し、僅かに中宮本社を残すのみであった。
 その後、上宮内社を建立、元和年中、徳山藩領となり、同藩主毛利就隆が赤坂の宮を吉原に遷して若宮と呼ぶに至ったのである。
 延寶(えんほう)六年(一六七八年⑦)八月に就隆によって、上宮上屋建立、造営奉行は服部久太夫、大工佐藤六左衛門、妙見山鷲頭寺法印は増遍であった。延寶七年、増遍法印の時、鐘樓門再建、大檀那は徳山藩主第三代毛利元次、本建立願主は鷲頭寺先住増遍、再建立願主は当代法印文隆(恵昭)。今まで七坊が存在していたが、この時は鷲頭寺のみになり七坊が鷲頭寺のみになったのではなかろうか。
  一、正徳四年(一七一四年)甲午(きのえうま)二月二十七日社坊鷲頭寺に有之妙見之縁起、先頃元次公被遊覧候処文字誤其外相違之廉有之に付御改被成、黄片折江認之(岡九介書之)閉本にして鷲頭寺什物に可指置旨を以御下渡相成、然は前縁起は御居間江可差出通りに付則差出之⑧
 その後、享保二年(一七一七年)の秋、氏子中から御神輿再造、大檀那は防長太守兼民部大輔毛利吉元、別当は鷲頭寺法印一峯、工師は赤井幸助であった
 その後、寛保三年(一七四三年)四月、権大僧都海本法印の代に徳山藩主五代毛利廣豊が帝の御脳平癒祈願のため上宮上屋を再建する。
  来巻村 豊井村 原田市正抱諸社
  豊井村須屋大明神
   徳山領来巻村社人原田市正
               妙現社
                  社人
  一、 妙現社 御幸やぶさめ有り 原田市正
  右都濃郡来巻村徳山領内に罷居申候、徳山領内の河内村北辰妙見社の神主にて御座候、尤九月十七日より十八日まで祭社の時分、徳山より御代参御出被成御久米指上ヶ申候、御かぐら代銀子被遣候
  一、東豊井の内すゃ大明神、壱間四方の小宮御座候、これも私とりをこない仕候
  一、西豊井村の内かのうの宮と申小宮、壱間四方の小宮有之、先年明見御こしかけられ候、年号在知不申候、此宮も私取をこない仕候
       寛保元年(一七四一年) 社人
          酉ノ十二月十日 原田市正(印)
   河内村 鷲頭寺
      都濃郡河内村
         妙見山由来
                  鷲頭寺
     都濃郡河内村妙見山
  一、上宮 社九尺四方瓦葺
      但、上宮へ坂本より二十町
   本尊虚空蔵 御長壱尺三寸 琳聖太子御情(請)来也
  一、中宮 社弐間三間檜皮葺
      但、中宮へ麓より十八町
     釣屋九尺弐間瓦葺
     拝殿二間三間同断
      但、大内の紋二ヶ所有
     中尊妙見尊木像 御長壱尺五寸 琳聖太子御情来
     千手観音像金仏 御長壱尺壱寸 右同断
      千手観音木仏 御長三尺
      当山有主の尊像と申伝、作不知
     琳聖太子木像 御長九寸五歩
     推古天皇像 御長九寸三歩
        右両像ともに作不知
     閼伽井 中宮の東二有
     仁王門の跡 築石計有
      尤二王は只今中宮に有、作不知
     五重の塔跡と申伝候所数多有之
     坊中旧跡と申伝候所数多有之
    一、若宮弐間半四間瓦葺
       平生御輿納置来候
    一、御幸所弐間二五間
    一、中宮勤方の事
       毎月朔日十八日御灯明を献じ修行の事
    一、大歳より三朝の間勤方の事
       御供灯明献之、妙見秘法修行之、右参籠にて宝祚延長、天下太平、大檀那御武運長久国家安全護
       国豊穣懇祈之
    一、節分修法
      右同断
   一、御祭礼勤方の事
      九月朔日鎮祭執行の事、同一六日新檀秘法終御輿餝有、同夜
      寅ノ上刻玉体奉遷神輿勤行、同十七日神輿宝前本地供修行之
   一、同十八日御蔡礼御幸の事
      御領地御代参有之、当日祭礼奉行役被差出御幸相成候、導師別当供僧供奉行烈於中休有奉幣、然旅
      殿導師奉幣白(帛)勤行終於脇殿神主神楽相勤候事
      やぶさめ有、終還幸(かんこう)の事
    一、古記一軸并棟札等写別紙差出候
    右当山一宇御領主御脳二テ御座候、旧記の儀荒増若斯
       当寺一巻
    一、本尊不動并二童子
       但、弘法大師作
    一、両界曼荼羅
       同御筆
    一、地蔵木像 一尊
    一、千手観音木像 一尊
    一、虚空蔵木仏 一尊
       右いずれも古仏、作不知
    一、不動木像并二童子
       但、春日の作
    一、代々世牌の儀度々焼失仕知れ不申候、其外重宝等数多有
      之候所是又焼失の由申伝候
    一、本寺の儀は無本寺にて御座候所、元禄年中より京都仁和寺末寺に相成候事
    一、当寺御領主御脳に御座候内、楼門計氏子中より建立氏仕候、且亦釣鐘銘文知れ不申候
     「大般若経六百巻に有り(輝元公永禄の比御再興の棟札に大庭加賀守は社奉行とあり)
     防陽都濃郡妙見山鷲頭寺常住奉安置訖
      天正弐(一五七四年)暦甲戌(きのえいぬ)初秋中旬三好日
         檀越大庭加賀入道桃宗居士
         勧進沙門当山前閼伽井坊(于時宮司)権大僧都源知 判
    一.当寺末寺蓮台寺、都濃郡山田ニ有之候、当国三十三所第十一番の札所、
      本尊如意輪観音、行基菩薩の御作、観音堂弐間三間也
    右当山一巻旧記若斯御座候、以上
      寛保元年(一七四一年) 都濃郡河内村真言宗妙見山
          酉十二月                 鷲頭寺 印
                              現住 祖海
             井上武兵衛殿 ⑨
また宝暦七年(一七五七年)六月十三日に同じく、毛利廣豊が中宮の上屋を初めて建立する。その後、明和元年(一七六四年)八月、権大僧都恵本法印の代に妙見社宿殿を再建、作事奉行浅海甚兵衛、大工は亀谷忠左衛門であつた。
 明和四年(一七六七年)十一月、恵本法印の代に大檀那たる徳山藩主七代毛利就馴が御脳平癒祈願のため、北辰妙見若宮社を再建、当時の執権は奈古屋蔵人、目付は安田七兵衛、作事奉行は浅海甚兵衛であつた。
 安永元年(一七七二年)十二月十二日、恵本法印の代に氏子中から若宮妙見社燈籠台を建立。
 その後寛政二年(一七九〇年)権大僧都恵亮法印の代に氏子中から始めて中宮社石鳥居を建立。同年十一月、中宮社鐘楼撞堂を建立。寛政五年(一七九三年)、下松西市の山城屋両家から中宮社通夜同を始めて建立。
 その後、文化二年(一八〇五年)権大僧都恵寶法印の代に護摩堂(観音堂)を再建、文化三年(一八〇六年)七月、中宮社大番固屋を始めて建立。その外に大般若経の再興、神輿の彩色、楼門の修覆等々の細事にいたつては数えあげることができない。
 一、文化三年(一八〇六年)丙(ひのえ)寅八月十七日御神前に御紋付幕挑灯等無之
先年は下松御隠居様より御寄付之御挑灯等も有之候処其後御仕替不被仰付、中絶相成居候間御紋計御免被仰付候は御挑灯(おんちょうひ)幕之義は於寺相調可申し段鷲頭寺より願出候処幕之義は不被之御沙汰、挑灯之義は先年御寄付之訳も有之義に付中宮へ二張、若宮へ三張以上五張願之通御紋計被差免候条張調方於寺取計可申、然上は後年共修覆之義一切御構無之(おかまいなしの)通御沙汰⑧
 文化八年(一八一一年)八月四日、妙見川に白亀が出現して奇瑞を現した。亀は妙見さまの使者であり、現在、本堂内に大切におまつりされている。文化十三年(一八一六年)、妙見社釣鐘の鋳替を行い、翌十四年二月一八日、江戸の徳山藩邸内に北辰妙見尊星王を勧請奉祀された。
 当時の宮司は権大僧都恵實法印で大檀那は毛利大和守就壽であつた。しかし、その数十年後、各地から妙見菩薩の御分霊が妙見社に帰り、妙見宮鷲頭寺の遷座の前ぶれが起こる。
  一、文化十四年(一八一四年)丁(ひのと)丑二月二十八日、東京今井谷御屋敷内稲荷社境内江下松妙見宮御勧請⑨、社御建立遷宮式有之
  一、天保九年(一八三八年)戊戌(つちのえいぬ)上宮并瓦紋付御免被仰付被下候様願出相成処⑩。妙見社之義は古来より御脳場所格別之訳も有之ニ付瓦計御紋付被許之
  一、嘉永五年(一八五二年)壬子(みずのえね)十月二十九日此度大阪御蔵屋敷へ妙見社⑪御勧請被仰付候間罷登候様鷲頭寺江御沙汰相成、即上坂御勧請式調之
  一、嘉永五年(一八五二年)壬子十一月大阪御蔵屋敷内へ下松妙見宮歓請社建立成⑫。後元冶元年(一八六四年)申子十二月六日変動に付妙見尊像爰許江御取下し常祷院へ当分御預て、其後鷲頭寺へ御預替相成処、慶応四年(一八六八年)戊辰六月先般御蔵屋敷御取戻し相成候付又又大阪へ御遷座相成⑬
  一、元冶元年(一八六四年)甲子十二月六日大阪御蔵屋敷御勧請の妙見⑭、此度変動に付爰許御取下し当分常祷院御預け之処同二年(一八六五年)丑三月鷲頭寺へ御預替被仰付之、後慶応四年(一八六八年)戊辰六月二十  二日右尊像又又大阪へ御帰りに相成候付置く御蔵本へ差出之。
(注)
 ①陰徳記 元禄八年(一六九五年)著者 香川正矩 校訂者 米原正義 発行所 マツノ書店 発行 一九九六年
 ②鎮宅霊符縁起上・下 寛永四年 著者 出雲路十念寺 澤了 出版元 洛陽四篠坊門水田書堂蔵坂
 ③妙見菩薩霊応編 天明六年(一七八六年)出版元 京都 近江屋佐太郎・北江戸堀 今津屋辰三郎・心斎橋 藤屋萬三郎・高麗橋 藤尾善七
 ④鷲頭寺資料(明治十二年資料)
 ⑤鷲頭寺資料(明治十二年資料)
 ⑥八箇国御時代分限帳,毛利輝元による一五八〇年(天正末~文禄初)惣検地録 下松市史 通史編(P213)
 ⑦鷲頭寺資料(明治十二年資料)
 ⑧防長寺社由来巻九(p50)
 ⑨徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年
 ⑩徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年
 ⑪徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年
 ⑫徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年
 ⑬徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年
 ⑭徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年
 ⑮徳山市史料。上巻徳山藩史神仏社寺之部編纂徳山市史編纂委員会。発行徳山市。発行日昭和三十九年