第五章 神仏分離と妙見社鷲頭寺

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 大内氏は山口県を中心に栄えた大名で出自は推古時代に来日した百済の王子の琳聖太子を元祖として室町時代には大大名として大阪の堺、福岡の博多を支配し、勘合貿易の利権をも獲得し、大内氏の居城であつた山口市は、京都をしのぐ繁榮をもたらした事もあり、その大内氏の氏神として妙見菩薩が祀られ、妙見信仰発祥の地とも言われてきた所でもある。だが、一地方の妙見社の歴史を解き明かすことは空をつかむに等しいことだと感じた。しかし、現実に現代まで続き江戸時代には大衆の仏教書の中にも記録されていることは江戸時代より少しずつ過去にたどって行けば、そのはじめにたどりつくのではなかろうか、その事を信じて調査していくことにした。
 明治四年の神仏分離令により吉原の地より現在の下松市中市(くだまつしなかいち)に遷座して、今なお神仏混合の宗教行事がおこなわれて来ており、下松市の一地域の氏神としての流れが細々おこなわれてきた。江戸時代、妙見社鷲頭寺は徳山の毛利藩よりわずかな石高を与えられていた。明治元年全国の神社から仏教色を排除するための神仏の分離が命じられた。①
 明治二年五月二十七日、付の神仏分離の<大令録>には
  中古以来其権現或は午頭天王と申類、其外仏語を以神号相称候神社不少候、執われも其神社之由緒委細に書付早に可申出候事
  仏像を以神体といたし候神社は以来相改可申候事附り、本地様と唱え仏像を社前掛或は鰐口梵鐘仏具之類差置候分は早々取除可申候事右之通従朝廷被仰出候間左様御心得其御沙汰被成との御事
  己巳(明治二)五月廿七日
  社寺局 政府②
  県より
  又同『徳山市史』によれば
  明治二年己巳九月十八日御祭礼之節年末押役被差出来処当秋より被差止、県令出張被候付之。③
 という布告が堤出されている 明治維新を成し遂げた藩として率先して神仏の分離をしなければならない、それが妙見社であつたのである。
  同じころ下松市の萩本藩領の花岡八幡別当職地蔵院から、次のような願書が庄屋から勘場へ堤出された。
   『下松市史』④には
    御願申上候事
    今般従朝廷神仏混淆之儀御改、別当社僧還俗、神主社人等之称号に転職候被仰出候に付奉得其旨候、身柄還俗仕、以神道致奉仕度奉存候、就いては拙僧事都野正記と改名仕度奉存候間、此段宜敷被成御沙汰可被下候、以上
                          都濃郡華岡八幡宮別当職
                                    地蔵院
    右の願書は、花岡八幡宮の最高職である別当職の地蔵院が、僧侶から神主になるための願い出たものである。
    一、朝廷から神仏分離が命ぜられ、別当(僧)は神主になれとのことである。
    二、その為今後は神主として神社に奉仕する。
    三、ついては名前を都野正記と改名したいのでどうか許可してほしい。
    この別当職地蔵院の願いは、明治二年十一月十五日、藩府の許可するところとなった。僧侶でも還俗して神主になれば武士として認められ、僧侶のままであれば一般の平民とされた。
   同じく『下松市史』⑤には
  戸籍制度は、長州藩が他藩に先駆けて安永八年(一七七九年)から実施していた制度である。明治政府には、長州藩出身者が多かつたので、この長州藩で実施済の制度を、全国で実施することにしたのである。この年作成された戸籍を、同年の干支にちなみに壬申戸籍という。明治五年(一八七二年)一月、明治政府は全国で一斉に人口調査と戸籍作成を布令した。この戸籍帳の記載内容は、長州藩で実施されていたものを、ほぼ完全に踏襲したものであつた。そのため、四民平等の社会になったとはいうものの、士族、平民という身分差が記入されることになった。これは昭和の第二次世界大戦後まで続いた。
『下松市史』⑥には次のような消息がみられる。
  一 明治三年江庚午九月四日妙見尊体神仏之義朝廷へ御伺出相成、御差図之旨を以来十日より神祭被仰付、依之社坊鷲頭寺被差除、社頭引請之義追而御詮議相成語迄黒神直敬江当分取計被仰付之、
  同四年辛未九月十日直敬取計被許之原田重庸、近藤由纈両神主に被仰付之
  一 同年九月七日妙見社号降松神社改号成
 明治三年九月四日妙見尊像の件は朝廷にお伺いした。十日より神祭でするように、よって妙見尊像は鷲頭寺にうつすように。社頭の引き継ぎは御詮議がすむまで黒神直敬が当分するように。
 明治四年九月十日、黒神直敬の取り計らいで原田重庸、近藤由纈両神主にきまった。徳山藩で最大の八幡樣の遠石(といし)八幡宮の宮司の黒神氏⑦は明治三年神社役取立方に任命されたので神仏分離について、庄屋番頭に新政府の方針を正しく伝える必要があった。彼が至急しなければならない当面の事業は、神仏習合の中心である妙見社をスムーズに下松神社と名称を改め、妙見社の御神体である妙見大菩薩より天御中主神に改めることであった。黒神氏はしばらくの間、妙見社の宮司になった。⑧この為、妙見社の上宮、中宮の本尊である虚空蔵菩薩、七曜石、中宮の本尊である妙見菩薩、脇持仏である琳聖太子、推古女帝,十一面観音を千数百年間鎮座された場所より、鷲頭寺の観音堂に遷座することになった。明治四年九月十二日付けで黒神宮司は原田、金藤両神主に下松神社をまかすこととなる。
 明治時代の六カ村(豊井村、河内村、末武村、切山村、生野屋村、笠戸島村)⑨の郷村社は河内村、郷社、下松神社(旧妙見社)末武上村、郷社花岡八幡宮、村社、切山村、切山八幡宮、生野屋村、松尾八幡宮、笠戸島、笠戸神社、笠戸八幡宮の六社である。
 下松市の明治時代の各村の無資格末社(府県、郷、村社に入らない社)数は、大藤谷村(三社)、温見村(四社)、瀬戸村(三社)、切山村(一社)、下谷村(四社)、生野屋村(四社)、山田村(六社)、河内村(十三社)、来巻村(二社)、東豊井村(六社)西豊井村(十二社)、末武上村(一社)、末武中村(一社)、末武下村(二社)平田村(二社)、笠戸島(〇)河内村を中心に山田村、生野屋村、東豊井村、西豊井村、来巻村、と末社数は四十三社④にもなり、すべて河内村の妙見社の末社であり、妙見信仰がこの地域に深く浸透していたことを物語るものである。
 明治三年九月、生野屋村(生野屋村は下松妙見社の氏子)の庄屋、松村伴五郎の記録によれば
    下松妙見社之儀⑩
  此度朝廷より御沙汰相成候に付、仏体仏器は来る十日鷲頭迄御下り被仰付間、此段御知らせ申上候也。
       九月九日                          鷲頭寺
       松村伴五郎様
61p
  これより妙見社(上宮、中宮、下宮)は降松(下松)神社となり、臨時の措置として黒神氏が神主となった。
また『下松市史』⑪によれば
  口演
  河内村妙見社今般降松(下松)神社と御改号被仰付、来ル十六日任常例、何風与も無之候得共麁茶進度候間、乍御苦労清木孫太郎方迄御出可候、右為御案内如是に御座、以上
   明治三年九月十二日
                  黒神
    六ヵ村御庄屋畔頭衆中            〈松村家文書〉
 妙見社の氏子である六カ村の庄屋や有力者に妙見社を下松神社に変更し本尊を天御中主神に変更したことと黒神氏が妙見社(下松神社)の宮司になったことをお披露目するための集まりで粗茶などを進呈するので清本方に集まるようにとの案内である。現在でも遠石八幡宮は近辺で一番大きなお宮で黒神氏は徳山藩でも一番大きな八幡宮の宮司で、社僧真言宗五智輪坊⑫、神主大宮司黒神直敬、祠官黒神直臣、神官吉本青春、同吉本直勝がおり、河内村妙見社も明治三年の神仏分離まで匹敵し、境内地一万九百六十二坪あり、妙見社、社僧真言宗鷲頭寺、神主黒田重庸、祠官金藤由頤、同近藤克凱、同村上義雄がいた。なお当時の妙見社鷲頭寺の住職は河村明範師であった。彼は河内村の旧家の出自であつた。
 明治四年(一八七一年)太政官布告⑬をもって全国の神社の格付がなされ、官社と諸社に分けられた。国家自らが経営する神社が官社、それ以外の神社が諸社である。官社には官幣大社、官幣中社、官幣小社、国幣大社、国幣中社、国幣小社の六つ、諸社には、府社、藩社、県社、郷社、村社の六つが設けられた。諸社の内の藩社は廃藩置県により府県社となった。以上の社格を賦与されない神社は無資格末社とよばれた。
 ともあれ明治四年の布告により妙見社は郷社の資格をうけることになる。現在の下松市内で郷社の指定を受けた神社は二社で、下松神社と花岡八幡宮である。当時の氏子数⑭は降松(下松)神社は一八八八戸で、また花岡八幡宮は七六三戸であった。
 妙見社と言うのは鷲頭山の中腹に中宮があり、頂上に上宮があり、上宮に七曜石と虚空蔵菩薩がお祀りされ、中宮に妙見菩薩の本尊と琳聖太子、推古天皇、十一面観音菩薩がお祀りされていた。中宮が下松神社となったのである。
 『明治以降宗教制度百年史』によれば
明治五年政府は神祇省を廃止し、教部省⑮を設置し、宣教使を改め教導職を置き、教正以下講義、訓導など十四級の制を定めた。三条教則(三条の教憲)の大教宣布運動であった。三条教則とは「一、敬神愛国ノ旨体スヘキ事、一、天理人道ヲ明二スヘキ事、一皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」である。
 また明治五年に神官はすべて教導職に補すという発令が出され、妙見社鷲頭寺の住職、河村明範師は教導職試補となった。明治七年の教部省上表⑯によれば、計七二四七人の多数に上った。内神官は四二〇七人でもつとも勢力を占め、真宗七二八人、浄土六三三人、曹洞宗四五九人、真言宗四四九人の順序になっている。
 『明治以降宗教制度百年史』によれば
  政府は明治十年一月に教部省を廃し、内務省社寺局⑰を設置して、神道を中心とする国体の強化を図り、神体として祭られていた仏像を取り除き、菩薩、権現などの仏語神号はすべて改められた。
 その後、妙見社鷲頭寺の住職河村明範師は妙見菩薩を観音堂でお祀りしては神仏混合での祭式ができなくなると感じ、吉原の地より妙見菩薩降臨の地、下松町に遷座すべく準備をしておられたのではなかろうか?
 だがこの移転は周防一円の真言宗寺院と河内村と下松町の住民をあげての賛成、反対の大騒動に発展した。移転賛成派は下松町の住民で八百余名の賛成連署をもつて住職河村明範師を助け、西市の正福寺住職中村一現師とともに移転の準備をした。
 『下松のいろいろの歴史』⑱
 「長い歴史をもち、下松妙見社を中心として盛んであつた妙見信仰は、各地で殊に遠く石州地方からの信者の参拝者が多かつた。現に吉原若宮の周辺には、昔の宿屋のおもかげの家も残り、徳山の遠石八幡宮とならんで芝居小屋もあつたという。神仏分離に続いて鷲頭寺が下松の町に移ることになつた。明治十二年十二月のことである。巷では鷲頭寺の移転が神仏分離と関係し、下松の町に移されたように思われているが、これも一因であるが、むしろ寺の方も町に出たい意向があり、町の方からも誘致したのが実情ではなかつたかと思う。昭和通河村家の言い伝えによると、一度町に移ったが、条件が違うといつて河村家(住職の実家)に御本尊を奉じて帰られたと伝えられている。移転に莫大な費用を要したと思われるので、移転のための条件もあつたことと思われる。移転後の妙見社(鷲頭寺)の繁栄は、たしかに町の繁栄をもたらし、寺の参道に飲食店が並び、二階建や三階建の宿屋が建った。しかし妙見信仰は昔のままで、神仏混淆で参道には大きな鳥居も建てられている。」
 一方、反対派は河内村の住民で村の盛衰にかかわると考え、周辺の真言宗寺院の住職と反対の〈のろし〉をあげた。その移転反対の上申書とは
  鷲頭寺移転の儀に付上申書⑲
   今般本国都濃郡河内村鷲頭寺を以て同郡西豊井村下松町に致し度旨に付即御本山之御副書を得て地方廳に出願候趣に御座候得共、本より当寺に安置之妙見大菩薩、数百年来村内人民の信仰者勿論近郷一般帰依之尊像にて諸人参拝も数多御座候虚右様移転に相成り候にて、人民之信力を失するのみならず自然村内不繁栄之一端とも相成り候、右当寺移転に付っては前以て結衆を始め村方一統連署を以て右移転之儀双方之儀に相成候迄御延引被成下度目
  今地方聴に嘆願中に御座候。
   右当寺移転に付いては前もつて結衆を始め村内人民に示談可有之筈之処現今住職河村明範一巳之料簡を以て正福寺住職中村一現なるものと相謀り檀断至極之取斗に御座候間村内之苦情不輙から結衆之僧侶も傍歓に不堪候条、
  何卒双方熨儀候迄御本山御副書も一先御取消に相成候様当地方聴に御駈合被成下度此段結衆一統連署を以って歎し願仕候也
   山口県下周防国都濃郡河内村鷲頭寺結衆
    明治十二年十月二十一日
       仁和寺
         執事御中
 此度、河内村鷲頭寺は下松町に移転するため本山の副書得て地方庁に出願されました。鷲頭寺の安置の妙見大菩薩は数百年来村民の信仰はもちろん近くの一般の人々も深く帰依し参拝者も大変多いのに何故移転すべきであろうか。人々の信心を失うことは有に及ばず自然と村が寂れる原因となります。鷲頭寺の移転については前もって結衆や村の方々の連署をもってすべきで、移轉賛成者との話し合いがまとまるまで、鷲頭寺の移転を引き延ばしてほしい。今地方庁には移転の儀について嘆願中です。鷲頭寺移転に付いては前もって結衆を始め、村内人民に相談してしかるべきところ、現住職河村明範一人の考えで、末武村の正福寺住職中村一現とはかり行動したことで、村民は大変に怒っており、結衆の僧侶も傍観することができない。なにとぞ、双方の問題が解決するまでひとまずお取り消しになり、地方庁に賭けあいのほど、結衆一同連署をもってお願い申し上げます。
 鷲頭寺の結衆寺院からの移転反対の書面を仁和寺は受け取ることになる。しかし一度移転の許可を出したことにより移転反対者に返事が出されなかったのであろう。しかし移転のための工事は着々と進行したのであろう。
 明治十二年三月付をもって再度、仁和寺本山に移転反対の上申書⑳を荘宮寺住職徳山秀法師、常祷院住職藤村秀英師、多聞院住職熊野宝道師の三名の連署で堤出している。
 『鷲頭寺資料』⑳
  「鷲頭寺は古来より維新のきわまで妙見社別当なるところで神仏判然の節本村の信者輩当寺観音堂に妙見さまを安堵し、遠近の差別なく信者の多きは以前にもまして多く、これ妙見社安置の仏体なるをもって、しかるになお移転しようとは何事であるか」
等々の内容である。
  山口県周防国都濃郡河内村21
        鷲頭寺
   右寺移転之儀に付先般副書致し候処都合之次第も有之候門追而否相定候迄御採用御延引被下度候也
            大本山
             明治十二年十二月二十三日
                     仁和寺住職 冷泉元誉 印
 仁和寺は二度目の上申書を受け、仕方なく鷲頭寺の移転を引き延ばすように地方聴に右のような文書をだすのである。このような状態の中、明治十二年十二月十七日に下松町中市に御遷座した。現在の下松市中市の妙見宮鷲頭寺である
 下松市教育委員会発行の『下松市石造文化財、祈りと生活』22の中で
  「昭和通り松心寺の山門に入ると、その山門にほとんど並んで左右に二基の宝篋印塔が立っている。二基とも高さは大体同じ約三四〇センチぐらいである。
   東側 享和三癸亥年正月吉日(一八〇三年)
            鷲頭寺現住恵亮代
           願主 磯部清石、磯部弥四郎、原田右衛門、磯部吉左衛門
   西側 文化五年五月戊辰年九月吉日(一八〇八年)
            鷲頭寺現住恵実代
           願主 清木善右衛門、清木七左衛門、清木彦右衛門
  の二基の宝筐印塔が松心寺に残っている。
  この宝塔は明治十二年に下松町中市に妙見社鷲頭寺を遷座する時、河内村の住民の反対の為に松心寺の藪の中
  にかくした。その後、昭和二十五年に山田氏により松心寺に組み立てそこに置かれるようになった。」と記してある。
 その後、明治十五年十月三日付けで仁和寺本山より鷲頭寺に通達が来る。
       通達書23
    鷲頭寺殿
  「先般八百余名の連署をもつて移転されたわけであるが、大変不都合なことをいたしました。移転されて後、直に盛をきたし、寺は繁栄されているとの事 」
 今回、更に転地の書面等記戴し寄付地所並びに維持資本金等に寺付属の物を記入して本山に至急連絡するよう通達する。
   明治十五年十月二日
        大本山 仁和寺 執事 印
右のような文面をいただき河村明範住職は鷲頭寺の明細帳を本山に至急に堤出している。
     鷲頭寺明細帳24
  本尊 妙見仏 御丈 一尺一寸 木像 一体
     推古天皇 御丈 一尺五分 木像 一体
     琳聖太子 御丈 一尺五分 木像 一体
     不動明王 御丈 二尺一寸 木像 一体
     千手観音 御丈 一尺五分 金像 一体
     弘法大師 御丈 一尺三寸 木像 一体
     二王尊 御丈 五尺九寸 木像 二体
     観音像 御丈 一尺 木像 三十三体
  曲板木 妙見経板木、同略縁起板木
  古器の部 七曜石、琳聖太子剣
  土地 一町一反四畝
  建物


   その他等々は略す。
 鷲頭寺が河内村から下松町に移転後、河内村の村民は新しく妙見堂を建設するため地方庁に申請し、その許可を得る。そして妙見堂25が新しく河内村に建設されるが、数十年後その存在すらも忘れ去られた。他方、河内村から移転された中宮の本尊妙見菩薩と、鷲頭寺の本尊不動明王は、新しく建設された権現造りの本殿に妙見菩薩を本尊として祀り、鷲頭寺の本尊を脇物として、妙見社鷲頭寺を妙見宮鷲頭寺に改名し、本尊を妙見菩薩とした。それ故、妙見宮鷲頭寺は宗教法人法では寺であるが、一般の人々の認識ではお宮さんとしての一地域の氏神として多くの市民から親しまれている。そして祭式は僧侶が衣のまま御幣をふり、お宮参りや、厄除けのお祓いをする。風変わりな神仏混合の方法で祭式が今なお平成の時代まで進行中である。
 しかし山口県地域に数多くあった妙見社の末社26は神仏分離のため神社となり興隆寺の妙見社と鷲頭寺の妙見社のみ妙見菩薩を本尊としお祭されており、あとの妙見社は新しい御神体(天御中主神)をお祭りしたり、まつたく新しい神を御祀りしているところもある。だが現在は、鷲頭寺、興隆寺を除き妙見社のほとんどは神社の管理に委ねられている。
(注)
 ①日本全史(p909) 発行 講談社
 ②徳山市史史料上巻(p156) 編纂 徳山市編纂委員会 発行 徳山市
 ③徳山市史史料上巻(p667) 編纂 徳山市編纂委員会 発行 徳山市
 ④下松市史(p555) 通史編 編纂 下松市編纂委員会 発行 下松市
 ⑤下松市史(p559) 通史編 編纂 下松市編纂委員会 発行 下松市
 ⑥徳山市史史料上巻(p667) 編纂 徳山市編纂委員会 発行 徳山市
 ⑦徳山市史史料(p726)黒神直臣、明治三年社務取立方、明治七年京都賀茂御祖神社少宮司兼権大講義明治七年九月、京道府管内神道教導取締、明治十三年東京靖国神社禰宜、明治一五年死去四八歳
 ⑧下松のいろいろの歴史(p201)、著者、宝城興仁
 ⑨六ヵ所村の地図をいれる
 ⑩下松のいろいろの歴史(p200)、著者、宝城興仁
 ⑪下松市史(p555)編集、下松市編纂委員会、発行、下松市
 ⑫徳山市史史料上巻(p660)、編纂、徳山市史編纂委員会、発行、徳山市役所
 ⑬明治以降宗教制度百年史(p25)、文化庁、昭和四十五年発行
 ⑭下松市史(p557)編纂、下松市史編纂委員会、発行、下松市
 ⑮明治以降宗教制度百年史(p59)、文化庁、昭和四十五年発行
 ⑯明治以降宗教制度百年史(p59)、文化庁、昭和四十五年発行
 ⑰明治以降宗教制度百年史(p85)、文化庁、昭和四十五年発行
 ⑱下松のいろいろの歴史(p202)、著者、宝城興仁
 ⑲鷲頭寺資料、鷲頭寺移転の儀に付上申書、明治十二年
 ⑳鷲頭寺資料 移転反対の上申書、明治十二年
 21鷲頭寺資料、本山より移転延期の書、明治十二年
 22下松市石造文化財、祈りと生活、発行所、下松市教育委員会
 23鷲頭寺資料、仁和寺本山よりの通達書、明治十二年
 24鷲頭寺資料、鷲頭寺明細帳、明治十五年
 25下松市史異説(p353) 著者 河村蒸一郎
 26興隆寺、妙見社(山口市)、金花山妙見社(山口市)、妙見神社(山口市)、車塚妙見社(防府市) 岸津神社(防府市)、天御中主神社(防府市)、善知神社(柳井市)、妙現社(長門市) 美栄神社(下関市、大国主命)、妙見稲荷社(光市)、妙見社(島根県六日市)