結論

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  山口県において伝説上の人物琳聖太子は大内氏の太祖であり、妙見信仰の伝来者であり、仏教の伝来者としての位置が非常に高い。日本への仏教の伝来者は聖明王であるが、山口県においての仏像の伝来者は、百済の皇子、琳聖太子が多数をしめる。
 大内氏は妙見信仰の七佛妙見をもって琳聖太子、琳龍太子、阿戸太子、世農太子、世阿太子、阿津太子、正恒としている。
 長門の守護正恒をもって七代にわたる理論づけがなされている。
 都濃郡に星が降臨したという伝説については、年月等は異なっているが星が降臨したということに対しては反対の意見はいまだみつけることは出来ない。
 星が都濃郡に降臨し、妙見信仰がおこった事は誰もが認めている事実である。
 妙見信仰による琳聖太子は、『妙見霊応編』や『鎮宅霊符神』においては、琳聖太子は妙見信仰の伝来者であり、『鎮宅霊符神』においては、琳聖太子は鎮宅神としての地位を獲得しているのである。
 あたかも寺伝で聖徳太子との謁見の場面、聖徳太子を救世観世音の生まれ変わりと拝し、琳聖太子を十一面観世音の生まれとたたえあっている姿は、聖徳太子と阿佐太子との出会いのように思え、阿佐太子と琳聖太子が重なってみえてくるのはいたしかたない。
 また大内氏の山口県における支配は永く、また日本における地位は将軍を助けるだけの勢力を持つだけの大大名に成長していけば、大内氏の説を否定することは不可能に近いと云わざるをえないであろう。
 これが山口県地方で数百年間続けばごく自然に受け入れられたであろう。
 しかし、山口県以外の県、それも九州の熊本県八代市にも琳聖太子伝説が千年以前からあったという事はどのような事であろうか。
 八代市は妙見信仰と琳聖太子即妙見神としてのとらえかたであり、山口県では琳聖太子は大内氏の太祖としてのとらえ方で妙見神、鎮宅神としての存在までにはいたっていない。文人菅原道真が天神として祭られたようにいつ頃琳聖太子が生まれ、いつの時代に鎮宅神と祭られるようになったのか、今後の課題として取り組みたい。