―序文―

 / 110ページ
 妙見菩薩霊応編は天明六年(一七八六年)に出版され、再版が天保十一年(一八四〇年)に京都、江戸、大阪で出版された本であり、かなりの部数が出版されたと考えられます。
 今また、この平成の時代に再版とはと考えられるでありましょうが、当寺(妙見宮鷲頭寺)の本尊、妙見さまの信仰が江戸時代までいかに栄えていたかを、地元、下松市民に理解していただきたく、下松市制50周年のよき機会にと考え、岡田印刷の社長岡田憲佳氏の協力を得て、島根県の矢富氏の協力により現代語訳をもって世におくり出すことが出来ましたことは、一重に妙見さまの御神力の賜と深く感謝している次第です。
 山口県の歴史を語る時、大内氏をぬきに語ることが出来ません。また、大内氏を語る時、琳聖太子と妙見さまをぬきに語ることが出来ぬ位、妙見さまの存在は偉大であるわけです。
 私は、山口県史の歴史の一ページをかざる妙見さま降臨の日、推古三年九月十八日説(妙見宮鷲頭寺)、推古十七年説(山口県興隆寺)、敏達七年説等々の歴史研究を進め、推古三年説の立証をうらづけるべく努力して行こうと考えております。
 山口市の興隆寺(妙見宮の御分霊)の寺伝にはただ推古十七年に星が降臨されたのみ記してあり、九月十八日とは書いてなく、七日七夜輝いたとのみ記してあるわけです。
 興隆寺は過去、大寺であり、大内氏が興隆寺の寺伝をもとに大内氏の系図を書いた関係があり、現在の山口県の通説になったと思われます。
 しかし、江戸時代の通説は推古三年九月十八日の降臨説でした。
 また、琳聖太子渡来の年月ですが、これも諸説プンプンです。
 当寺の寺伝では推古五年三月二日、防府の多々良浜に着いたと書いてあり、迎えに来た人物まで記しているのです。
 しかし、他の諸説の中には、琳聖太子渡来その他についてはあまりくわしくは記されていません。
 私が大学者の説をかえることは出来ませんが、数多くの古い文献を見つけることによって、山口県の歴史の一大疑問点に光をあてることが出来るやも知れません。
 これから私は生きているかぎり、この疑問点にたちむかい視野を山口県のみで考えるのではなく、広く日本全国そして遠く韓国まで広げて考えていくことにします。
 最近、遠く山梨県東八代郡や島根県、広島県の各地より、御分霊を江戸時代や戦国時代におまつりしたとか楽しいたよりが来ております。
 平成元年十一月一日には、琳聖太子の祖国、韓国扶餘より李夕湖氏を初め二名が下松市制50周年のために来松され、妙見宮にも参拝され、過去の偉大なドラマをほうふつさせて下さいました。
 一九九五年が妙見さま御降臨、一四〇〇年にあたり、一九九七年が琳聖太子渡来一四〇〇年にあたります。
 このよき日を下松市民でお祝い出来ますことを、さらに山口県民こぞってお祝い出来れば、これにこしたことはありません。
 その日がくることを祈り筆をおくことにします。
  平成二年五月九日
                              於 妙見宮鷲頭寺
                                住職 杉原孝俊少僧正