あと五年後、一九九五年九月十八日が妙見さま御降臨より千四百年にあたります。一口に千四百年といえば簡単ですが、やはり我々人間にとってみれば永い永い年月です。
この本の原本は二百年前に出版されたものであり、二百年後にようやく多くの人の目にふれることになります。大変すばらしいことだと思っております。
私は、妙見宮鷲頭寺の住職になって十年目になってしまいました。その間〝妙見さま〟出版、二冊目として〝妙見菩薩霊応編〟を再版することになりました。これは妙見さまの御加護なしではとうてい出来ることではありません。
厄除堂の観音さまの側におまつりする百八体の観音さま選びに、平成二年八月十九日に富山県の高岡市に行きました。その帰り、鳥取県鳥取市の長谷寺の観音さまに立ち寄ることにしました。私が住職になった時、鳥取市の長谷寺に妙見さまの寺宝があると聞かされておりましたが、仲々買いもどす気持ちにならずそのままにしておりました。
たまたま今回、富山県に行くので山陰を観光しながら鳥取市の長谷寺に寄ってみようと思い、台風の中、長谷寺を訪問しました。道は荒れ、車が入るであろうかと心配し、村人に聞くと、寺まであがれるとのことで勇気をもって登って行きました。荒れはてた家とつぶれた本堂があり、みるも無残な状態でした。人が住んでおられるであろうかと考えた位です。
大きな声で「ゴメンクダサイ」と言うと老女があらわれて「参拝ですか。」と言われ、「そうです。」と言うと一方の玄関をあけて下さいました。そこの玄関のセメントの上に十一面観音が祀ってあるのです。何か世の無常をこれほど感じたことはありませんでした。先住職は八年前に亡くなり、一年後にして長谷寺の本堂がつぶれたそうです。
亡き住職の先妻と話をしている内、ぜひ寺宝を妙見宮にお返ししたいといわれ、私は老女の言われるまま大金で買いもどすことになりました。台風の雨風の中、自家用車に寺宝をつみ、八月二十二日午後九時すぎ妙見宮鷲頭寺に持ち帰りました。途中、二度と寺宝が寺から出ないように封印をしなければと考え、琳聖太子渡来千四百年祭の時、建立すべく妙見大菩薩像の体内仏として納め、二度と人の目にふれないようにしなければと考えたのです。
これらの出来事を江戸時代に出版された本を再版する時、書き残す不思議な機会にめぐりあったのも、妙見さまの御神力の賜物と深く感謝する次第です。また下松市民の目により多くふれていただくため「降臨擁護国土の顕証」の章を重複させていただきました。 合掌
平成二年八月二十七日
杉原孝俊
四十七歳