降臨擁護国土の顕証(こうりんようごこくどのげんしょう)

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 後太平記を見た時、「昔、人王百六代後奈良院の時に、鎮西の探題、大内多々良朝臣(あそん)二位兵部卿(ひょうぶきょう)義隆という人があった。その先祖は百済国の聖明(せいめい)王第三の王子琳聖(りんしょう)太子といった。時に推古天皇三年乙卯(きのとう)の九月十八日に、周防国都濃郡鷲頭庄青柳(つのごおりわしづのしょうあおやぎ)の浦に忽然(こつぜん)として天より輝き渡った大星が降りて、松の木の上に止まって七日七夜満月のように光を放たれた。国中の諸民はたいへん驚き、ふしぎに思った。そんな時、巫人に託していわれるには「私は北辰妙見尊星である。今より三年後の三月二日、百済国の琳聖太子がこの国においでになる。このことを聖徳太子に告げて「その琳聖をこの国に留めなさい」と言われた。そこで、その旨を京師にいき奏上した。推古天皇はたいへん悦こびなさって、同五年三月二日、卿相、雲客百余人を周防の多々良の浜に遣わしなさった。その時、琳聖太子は竜頭鷁首(げきしゅ)の舟に乗って多々良の浜にお着きになった。そして長門国大内の県に宮殿を設けて、そこに住みなさった。よって琳聖太子は鷲頭山に宮殿を造って、北辰妙見尊星を勧請し、星の宮と名づけて、祭祀の日を九月十八日と定めなさった。
 匡弼、三国史記をよんで考えるのに、百済国の始祖温柞(おんそ)王(高勾麗(こうこうらい)の元祖高朱蒙(こうしゅもう)の第二の子で、漢の鴻嘉三年に即位した)より第二十五代聖王、名は明〓(めいしょう)という人があった。彼は琳聖太子の父聖明(しょうめい)王である。この聖王は二十四代の武寧(ぶねい)王の子であって、梁(りょう)の武帝の普通(ふつう)四年癸卯(えのとう)の五月に即位した。後に梁の孝元帝〓聖(しょうせい)三年甲戍(きのえいぬ)に軍勢をひきいて新羅国(しんらこく)を侵した。時に新羅の大将令武力(ぶりょく)のために殺され、在位三十一年でなくなった。この時、日本では欽明(きんめい)天皇十五年甲戍に当っている。よって、聖王の子で名は昌(しょう)というので百済王とした。これは琳聖太子の兄で、二十六代威徳(いとく)王である。しかるに、わが国の推古天皇二十二年に当って、威徳王は在位四十四年でなくなった。この時、隋の開皇(かいこう)三十五年甲戍の十二月であった。さて、琳聖の来朝は推古五年丁巳(ひのとみ)三月二日という。後太平記に、百済の定居(ていきょ)元年辛未(かのとひつじ)三月二日、来朝と記してあるのは誤りである。辛未(ひつじ)であるなら推古十九年であるはずである。さて、琳聖太子の来朝のことは国史の中に記されていない。元亨釈書資治(しゃくしょしぢ)の表一の中に、「推古五年春夏四月、百済(はくさい)の王子が仏の功徳を説いて、聖徳太子と会った」とある。
 五年四月、百済の王子阿佐(あさ)が来朝して聖徳太子と会い「大悲観音をうやうやしく拝んだ」と言った。(下略)
同書の聖徳太子伝の中に、「敏達(びだつ)天皇十二年に百済(はくさい)の日羅(にちら)が来朝し、聖徳太子を再拝して言うには(下略)。日本書記の中に「火葦国造阿利斯登(ひあしのくにつくりありしと)の子、達率日羅(たつそつにちら)は賢明で勇者である」とある。本朝高僧伝の中に、「日羅の伝記がある。」と。また、平氏撰(へいしせん)の聖徳太子伝略の中に、「五年丁巳(ひのとみ)の夏四月、百済王の使(つかい)王子、阿佐らが来て、調(みつぎ)をたてまつる」とある。このように数書の中に、琳聖太子が来朝したことが記してある。しかしながら、その末孫の大内多々良氏は今に存在して、歴代の良将名士が居て、その源が存在することは疑うことはできない。考えるのに、王子阿佐というものは琳聖太子のことであろう。なお考える余地はある。
 その後、琳聖太子の子、大内多々良正恒(まさつね)朝臣より五代の孫、大内茂村(しげむら)朝臣の時に、同国氷上(ひがみ)山に星の宮を移して尊敬されていたが、どうしたわけか、尊星は降りなさらず、長門国の桂木(かつらぎ)山に向かわれたので、星の宮を桂木のすみの嶺に移しなさった。するとまた、元の氷上山に降りなさったので、この山に再び星の宮を建てて毎日の神供や四季の祭礼や中春の大会経行管絃舞童(だいえきょうぎょうかんげんぶとう)音楽を奏し、専ら多々良家の武運長久、子孫繁昌を祈り奉りなさった時に、北辰妙見尊仙(そんせん)王の霊感の響きに感応するように、正恒朝臣より八代目の大内周防介盛房の子、大内弘盛、その子満盛の代に武家となって、元暦文治(げんりゃくぶんじ)の年間に、平家追討の折、源右大将頼朝公に忠勤の賞与として、始めて長門国を領した。満盛より三代目の大内周防介弘貞は、文永九年の頃、蒙古の賊が来攻し、日本を侵した時、百済国より軍兵を招いて、共に鎌倉を改め落とそうと相談した。将軍惟康(これやす)親王の執事、北条陸奥守政村(まさむら)はたいへん驚いて、周防国を与えて和睦した。その後、大内十九代正寿(しょうじゅ)院道階(どうかい)入道多々良弘世(ひろよ)は北辰妙見尊仙王を深く尊信し、星の宮に怠らず祈願されたので、霊感は早く伝わって、弘世の武勇は天下に輝き、諸卿、百官、諸侯、大夫に至るまで、皆、参上して服従した。この時、周防、長門、石見の三州の太守となった。よって、周防の山口を居城とした。弘世の嫡子である大内左京権大夫(ごんのだいふ)義弘は足利将軍義満(よしみつ)の右将軍となり、今川伊予入道了俊(りょうしゅん)の男、右衛門佐仲(うえもんのすけなか)秋の女を妻とした。その時に関東の今川、西国の大内との両家の文武の師範であった。その武威は天下に並ぶ者がなかった。義弘の子は七人もいた。嫡子は伊予守満弘(みちひろ)、次男は新(しん)介弘茂(ひろしげ)、三男は修理大夫盛見(しゅりのだゆうもりはる)、四番目は女子で山名讃岐守時政の妾である。五女は大友修理大夫親世(ちかよ)の妻、六女は大宰少弐頼光(だだいのしょうによりみつ)の妻、七男は大内介弘政という。
 そもそもこの大内左京大夫義弘は深く北辰妙見の神威を守り、三綱(こう)五常の徳を修め、諸民を憐み、人にへり下り、礼儀正しかったので、武威は先代より超越して、諸国の英雄は招かないのにやって来て服従し、その威光は天下に輝き、冨貴に繁昌した。この時、明徳二年山名陸奥守氏清(うじきよ)が謀反を起した。大内義弘は洛北の内野で氏清を討伐し、武威はますます輝いた。よって紀州、泉州、和州を加増され、合わせて七州の大守となった。この頃、三月十七日の五更に、五星が月を囲んで現われ、三度も色を変えた後に消えた。これは天下の変事、大乱の前兆であると天文(てんもん)博士、賀茂(かもの)有国の奏聞によって、大内多々良弘政を召いて、北辰尊星供(く)が行われた。参列した公卿には鷹司殿、九条殿、一条殿を始めとして、大・中納言、左右の武官、また執事の細川武蔵守頼之(よりゆき)、畠山尾張守義深(よしふか)、斯波(しば)、山名、佐々木、仁木、赤松などが白地の直垂を着て座した。その他の大小名の警衛は厳重であった。儀式の内容は省略する。後太平記天の部一の二ノ巻に詳しく説明してある。
 このように北辰尊仙王星檀に降臨しなさり、光明は十方を照らし、天地四方を照り輝き、異香を放ったので、殿内・殿外の公卿、百官、諸侯、大夫、大小名に至るまで、思わず頭が下り、礼拝した。しかし、その翌、明徳三年壬申(みづのえさる)大内義弘は南帝を洛西嵯峨に移し奉って、三種の神器を再び内裏に納めた忠勤によって四位上に叙せられた。
 これは北辰尊仙王の擁護によって、南方吉野の強敵は滅亡し、三種の神器を持ち帰ったものである。また、永亨(えいきょう)三年辛亥、鎮西九州の乱の時、大内修理太夫従四位上盛見朝臣は九州に出発して敵将菊池を討伐し、其の他の国主十二人をも討ち捕(とら)えて、自分は討死しなさったが、その武勇によって、肥豊筑の三国を領し、十か国の大守となった。その後、文亀年中、足利義稙(よしたね)将軍は周防国に落ちのびたが、前(さきの)左京大夫大内義興(よしおき)は九州の大軍を引き連れて戦い、永正(えいせい)五年の春、義稙将軍を再び帰洛せしめられた。よって義興は天下の執事となった。同八年八月、洛北の舟岡(ふなおか)山の戦に細川政賢(まさたか)を討って、その武威は天下にふるい天下の貴い者も身分の低い者も服従した。
 この大内義興は、とりわけ北辰尊仙王を敬まい、信念されて、いつも甲(かぶと)の頂に北辰妙見の金像をのせていた。だから、応仁記、中国軍記、後太平記などに、「永正(えいしょう)八年、細川右馬頭(うまのかみ)政賢、同阿波守政国らが謀反を起こした。その時、大内左京太夫(さきょうのたゆう)義興は大将として、洛北舟岡山で戦った。その軍装をみると、紺糸威(こんいとおどし)の鎧に、陽六(ようろく)の五枚甲(ごまいかぶと)の頂きに金(こがね)の像の北辰妙見尊星王を安置し、赤地(あかじ)の蜀江(しょっこう)の錦の直垂(いたたれ)に、左折(ひだりおり)の縁塗(へりぬり)を着、北辰尊星の幡(はた)を差していたので、誰がこの軍中の大将軍を見誤ることがあろうか」と記している。
 このように大内家代々元祖より北辰妙見尊星王を信じ敬っているので、家門は繁昌し、武威は天下に輝いた。しかし、二十八代目の大内兵部卿義隆という人は、元祖より北辰妙見の神力の加護があったので、従五位より正三位の侍従を越えて、遂に二位大納言に叙任され、二位大納言兵部卿兼大宰大弐(だざいだいに)多々良義隆と名乗った。その上に肥、豊、筑、紀、泉、和、長、防、石州など合わせて十二州の国守となって、威勢、冨貴は誰も比する者はなかった。しかるに、忽ち、北辰妙見尊星の神恩を忘れ、神意に背いておごりを極め、武備を忘れ、専ら詩歌管絃ばかりを行ない、北辰の祭祀を怠たり、勤行信念をなまけたので、家臣の陶(すえ)尾張守晴賢(はるかた)、同五郎隆房、内藤下野守隆世(たかよ)、野上修理太夫政忠らは大内家の滅亡を悲しむあまり、度々諌言したが、顧みず、遂に家臣陶晴賢らのために殺害され、大内家は二十八代になって断絶した。
 北辰神咒経の中に、「心に恥じることなく、暴虐で諸々の群臣を思うままに使い、人民をひどく扱ったので、これを退け、賢者を召して王位につかせる」とある。このことからすると、国王だけではなく、諸侯、太夫といっても、また士、庶人にしても、北辰の賞罰は厳しいものであるから、主を討伐した陶晴賢らは、毛利家にすべて討伐された。なお、くわしいことは後太平記にあるのでみなさい。
 輟畊録(さつこうろく)巻の六の中に、「白雲漫士陶明元(はくうんまんしとうめいげん)は諱(いみな)を〓という。若い時より仙家の法を信じ、玄武真君(げんぶしんくん)に仕えて、よく勤めた。明元の母は病を得た時は、とばりをたたいて、とび歩き、床、簣(すのこ)、衾(ふとん)や褥(よぎ)をかんで叫び苦しみ、歳毎にこのようで、死にたいと思うこと六七度に及び、医術を尽したが治すことができなかった。明元は胸をたたき、舌をかんで、母の痛みに代わりたいと思ったが、方法もなく、ある日母の痛みがひどく、危篤の状態になった。明元は走って玄武尊君の尊像の前に行き、再拝し祈って、「いま母の病いがひどく危い。私は私の肉を切って薬とし、母を助けたいので、私の股(もも)を切って、そのあとを早く治してください」と刀で股(もも)を切ろうとした時に、二人の童子が外からとび込んで「お前は股を切ってはいけない。私は天医であるからお前の母の病いを治してあげよう」と言った。明元はひどく驚いて、地に伏して、憐れみを願ったので、童子は机上の筆を取って、十数字を書き筆を置くと、二童子は倒れた。明元の家のものが水をもって、童子の顔にかけたので、しばらくして蘇生したが、みると隣の家の子どもである。そのわけを尋ねたが、子供たちは知らない。紙に書いた字を読むと薬法であった。読むに従って字が消えた。明元はたいへん喜び、これは日常、尊信し敬っている北辰玄武尊仙王のお告げであると、その薬法で母に与えて飲ませると、忽ち病気は治り、一生涯の中で、再び痛むことはなかったという。
 この陶明元の子を陶宗儀(とうそうぎ)といった。その友に会稽(かいけい)の張憲(ちょうけん)という者がいて、右の伝えをもって、北辰妙見玄武霊応真君(しんくん)の霊験を書いた。
 また、孝経列伝七の中に「庚黔婁(ゆきんろう)、字(あざな)は子正(しせい)という。たいへんな孝行者で、父の病いを北辰尊星に祈った」とある。この庚黔婁は二十四孝の中の一人で、前述したように、和漢において、古今霊応利生(れいおうりしょう)を受けた人はとても記すことはできない。
 いま、この世をみると、妙見菩薩は日蓮宗だけに尊崇される菩薩だと誤る者が多い。妙見菩薩は天台、真言、禅宗、浄土宗より八宗九宗に何宗に限られるという菩薩ではない。誤ることなく、諸々の人はすべて信じ敬いなさい。豊臣家の先祖は国吉(くによし)といった。この人がまだ昌盛(しょうせい)という僧であった時、江(ごう)州荒神(こうじん)山に登って、北辰妙見尊仙王の霊符の仙法を二十七日修行し念(ねん)じて、子孫に天下を泰平に治めるような名将を賜え」と心をこめて願ったので、願い通りに国吉の子孫に豊臣大閤秀吉公が出られて、天下を治め、その余光は大明、朝鮮などまでも輝き、武名を万世に伝えなさった。匡弼 鈍才で勉強不足といっても、北辰妙見尊星王の霊徳や仙蹟については、まだ考えていることがたいへん多い。しかし、この霊応編においては、このことを記さない。なお後編にその外の霊徳や仙蹟を述べようと思うので、ここで筆を置くことにする。