そもそも、北辰妙見は天にいらっしゃっては、太一(たいいつ)北辰尊星と名づけられ、多くの星の上首でいられる。また、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)とも国常立尊(くにとこたちのみこと)とも名づけられて、日本創造の祖神でもある。また、真武太一上帝霊応天尊(しんぶたいいつしょうていれいおうてんそん)と名づけられては、仙人の始祖として、妙見大薩〓(みょうけんだいさつた)と名づけられては、多くの菩薩の上首でもあられる。太一上帝(たいいつしょうてい)と名付けられては、儒教に尊ばれ、太極元神(たいきょくげんしん)と名付けられては、卜筮家(ぼくぜいか)において尊信され、左右に抱卦(ほうかい)童子、示卦(じかい)童郎を置いている。
漢の儒者六経に、「上帝(じょうてい)とあるところをさして、太一北辰星である。」と解釈している。
しかるに、後世の儒者たちは、上帝とは天理をさすという説に、「それは三代の遺志ではない」と太明(たいみん)の葛〓膽(かつきたん)も論述している。
そもそも、太一(たいいつ)北辰が尊いことは天上天下において比べるものはない。だから、天竺(てんじく)、震旦(しんたん)、日本をはじめとして多くの国においても、これを尊び、敬っているのは当然のことであろう。
そもそも、日本においては、毎年正月元旦の寅の時刻にうやうやしくも天子が先ず、北辰尊星を拝まれ、つぎに天地四方を礼拝なされる。江家(ごうけ)次第巻の六二張の中に、御灯(ごとう)を北辰に奉られることが見えている。年中行事において三月三日御灯(みあかし)を北辰に奉られる昔は、霊巌寺(れいがんじ)などへ奉られるということが、一条院御記(ぎょき)に見えていると江家次第に記してある。それには斎王郡行(さいおうぐんこう)の年の九月には御灯(ごとう)のことが記されていない。(京畿並に近江伊勢国此の日、北辰に燈(あか)し奉り供う、式文)
上古は御灯(ごとう)を奉られる時は北山(きたやま)霊巌寺の辺りで供された。(寛平の初は月林寺、後は円成寺である。)また、延喜式神祇(じんぎ)の五斎宮(ごさいぐう)の五(二十八丁)の中に、斎王太神宮(さいおうだいじんぐう)に入ろうとする時、九月朔日(ついたち)より三十日まで、京畿内、伊勢、近江などの国は北辰星に灯(みあかし)を奉ることはできないと記されている。これらの文を考えてみると、昔は日本六十余冊において北辰尊星王へすべて御灯(みあかし)を献じ神供(しんぐ)を奉って尊び敬い、その国の各所で天下泰平、五穀豊熟、人々の諸願成就、冨貴万福、如意吉祥を祈ったとある。今の人々もこのようにすると諸願成就して、大いに利益が得られるにちがいない。和漢古今においてもその霊応利生は数えることもできない程だ。だから、上帝王(かみていおう)より万民に至るまで、この北辰妙見尊星王に帰依し、敬い、心から信念し供養しなければならない。いま、この北辰妙見菩薩の所説(しょせつ)、神咒経(しんじゅうきょう)から証明し、また和漢古今の事実を挙げて、その霊応の不思議さや霊験あらたかなことを神仙(しんせん)の始祖である北辰真武霊応真君妙見薩〓(さつた)の霊徳を略記することにする。
そもそも北辰妙見菩薩のことを説いている仏経は七仏八(しちぶつはち)菩薩神咒経巻(かん)の第二に出ているが、別に北辰妙見神咒経という題号はついていない。また初めに如是我聞(にょぜがもん)とも説かず、直接に「我北辰菩薩、名づけて妙見と言う」と説き出して、終りには如王明珠亦復如是(にょおうみょうしゅゆくぶにょぜ)としている。その次は太白(たいはく)仙人の神咒経、その次は〓惑(けいわく)仙人の神咒経などと続く。またこの経を一名、広済衆生(こうさいしゅじょう)神咒経ともいう。しかし、翻訳者の名前は見当らない。故に偽経であるという人があるけれどそうでもない。考えてみると七仏所説(しちぶつしょせつ)神咒経四巻がある。初巻に七仏十一菩薩説大陀羅尼(せつだいだらに)神咒経という題があり、また、七仏八菩薩神咒経とも題がついている。ただし、この経は大乗(だいじょう)の所摂(しょせつ)である。だから、智昇(ちじょう)法師大蔵録の中に、「区別して大乗にあり、経の本旨によくかなっている。」という。さて、この経は東晋の代に翻訳されているが、東晋はわが国十七代仁徳天皇の御時の頃に当り、漢の代(よ)の名である。時に東晋の元帝、姓は司馬、名は叡(えい)、字は景文(けいぶん)という。都を建康(けんこう)という所に建てられ、また南晋ともいう。この東晋の元帝の建武元年丁丑(ひのとうし)(仁徳帝の五年になる)より、同じく恭帝(きょうてい)の元熈(げんき)二年庚申(かのえさる)までの、およそ十一帝百四年の間に僧俗が十六人で翻訳した経論(きょうろん)、並びに新旧の集失訳(しゅうしつやく)の諸経などすべて百六十八部四百六十八巻から成っている。この北辰妙見神咒経は失訳録(しつやくろく)の中にはいっているけれども、この類の仏経はたいへん多い。薬蔵(やくそう)菩薩経は経録(きょうろく)にのせず、諸蔵(しょぞう)にもない。しかし補助としてこの経をひき四聖の因縁をあげて証真私記(しょうしんしき)に出している。また大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんわうもんぶつけっききょう)は天台諸録にのせていないが、禅家の依経(えきょう)のようである。また浄土本縁(じょうどほんえん)経は訳者がわからず、真偽が不明であるが西晋録(せいしんろく)には記してあり、これは使用されている。また、千手平眼陀羅尼(だらに)経は訳者不明で、誰もこれを信じていないが、園城(おんじょう)寺の百光阿闍梨(ひゃっこうあじゃり)はこの訳者を考え出し、迦梵達摩多羅三蔵(かぼんだつまたらさんぞう)が訳された経だとしている。また却温(きゃくうん)神咒経も訳者がない。しかし、沙門亮汰(しゃもんりょうだ)が言うには、八家(はっけ)別録によると、「この経は円覚(えんかく)寺の宗叡僧正(そうえいそうじょう)の請来(しょうらい)である。」と言っている。また十往生経(じゅうおうしょうきょう)も訳者名がない。あるいは留支(るし)が訳したものともいう。伽陀(かだ)経は経録の中にのせられていない。陀羅尼(だらに)経は諸録の中にかくされている。しかし今、随衆(ずいしゅ)経目録にのっているものを見ると、昔、疑っていた経を今は信じ、今行っている経は疑っているとはいえ、大唐から来た一百洛刄部(らくしゃぶ)経(此に十億と言う)の中にある。またわが国へ伝えられた経はすべて七千余巻あるという。だから渡来した蔵経(ぞうきょう)には多いものと少ないものとがあり、貞元入蔵録(ていげんにゅうぞうろく)の経は五千余巻、開元入蔵(かいげんにゅうぞう)の経は七千余巻もあるという。さて、この北辰神咒経はこの開元入蔵の記した東晋録にある。また蔵経は羊(よう)の凾(かん)にあったので、疑念なく信じ、敬うことである。
そもそも北辰妙見菩薩はすべての国土を擁護し、上天子(かみてんし)より下は万民に至るまで守護しなさり、天下泰平、国土安穏にされ、宝祚(ほうそ)長久、繁栄を重ね、文武の官将は官位を昇進し、高録知行は加増され、立身出世をし金銀財産は充(み)ちて、諸運は長久、家業繁昌、子孫は永久に続き、すべての災難、火難、水難などなく、運が弱く、貧窮病身である者や衣食の貧しい者はこの北辰妙見を一心に信じれば、金銀米銭は自然に充ちあふれ、運は開き、冨貴が身につくであろう。もし智恵福徳ある男子を得たく思い、また端正艶美(えんび)な女子を得たく思い、また婦人が出産に当って祈ると安産となり、あるいはすべての難病、悪病などを祈るならば、みんな平癒し、また士農工商の諸道、諸芸に達することができ、また山中海上のすべての難を除き、その他すべての祈願をことごとく成就なされ、五穀豊饒(ほうじょう)、万物のすべてはよく成長し、饑饉(ききん)の患(わざわ)いをなくしようとして、すべての国土を擁護しなされようとする誓願であるので、すべての人はこの北辰妙見菩薩を信念しなければ、その霊応利生を受けることはできない。だから通常においてこの菩薩を朝夕、礼拝供養して一心に誠をもって祈れば、その霊応妙験を受けることができる。この菩薩が、一切国土を擁護し、万民を憐れみ、諸願を成就し、あらゆる人を救護しなさることは、すべての諸菩薩にすぐれておられるからである。
だから北辰妙見菩薩神咒経の中に、「北辰菩薩は妙見ともいう。いま、神咒経を説いて諸国土を擁護したいと思う。その所業はたいへん奇特である」とある。
この御経(おんきょう)の「我北辰菩薩」と「我」とは、「直接に北辰が自(みずか)ら名乗りなさって、われ、北辰菩薩を妙見と名付けた」ということで、妙見とは、お作りなさった事業のすべての国土を守護し、多くの人を大慈悲で救護しなさったことや、その他多くの菩薩を越えて神変奇妙なことは思慮分別があっても、到底測り知ることはできない。これは本地報身(ほんぢほうしん)、如実知見(にょじつちけん)であって、妙中のまた極妙であるによって妙見という。この北辰妙見神咒を説いて諸々の国土を守護しなさるのである。神咒は奥にある胡捺波(こたつは)の神咒である。
さて、この菩薩は世界に出現しなされて、天にいらっしゃっては、すべての星の上首であられる。また、仙人の元祖でもあり、また、すべての菩薩の上首でもある。だから神咒経に、「閻浮提衆(えんぶだいもろもろ)の星の中の最勝に当って」と説きなさる。閻浮提とは、この娑婆世界のことである。大論(だいろん)の中で、「閻浮とは樹の名である。提(たい)は州(くに)とする。この州の上に閻浮の樹の林があり、この中に河がある。底に金(こがね)の砂があって、これを閻浮檀金(えんぶだんごん)という。この樹があるから閻浮洲(えんぶしゅう)と名づけられた。この洲(くに)に五百の小洲(しょうこく)があって、これをとり囲んでいる。楞厳(りゅうごん)経の中に、「この閻浮提(えんぶだい)に、大国は全部で二千三百国ある」とあり、また、仁王(にんおう)経の中に、「この膽部洲(せんぶしゅう)に(閻浮提のことである)十六国の大国と五百国の中国、十万国の小国がある」とあり、また名義集の中には、「閻浮提を勝金(しょうきん)という」とある。西域記の中には、「南膽部洲を古くは閻浮提州といい、この世界のことである」という。
さて、多くの星の中の最勝とは、この妙見菩薩、つまり北辰尊星であって、北辰はすべての星の王である。故に論語の為(い)政第二の中で、「孔子が言われるには、為政者が政治をするのに、徳治主義をもってすれば、ちょうど北極星がその場所にいて動かず、多くの星がそれを中心としてその囲りをまわるように人民は為政者に心服するものである」と述べている。朱子が言う北辰とは、北極天の中枢のことである。その場所にて動きなさらず、多くの星がそれを中心として、その囲りをまわるようにこれに心服する。政事を行うとき、徳をもって行えば、自然のままに、天下はこれに心服することは、北辰に諸々の星が囲りをまわるように心服するようなものだ」という。また、爾雅(じが)の中に、「北極は北辰ともいう」とあり、郭璞(かくぼく)註の中にも、「北極は天中にあり、すべてのものを正しくする」とあり、また、史記の天官書の中にも、「中天の北極星、その明らかな星は北辰の住いである」とある。また、抱朴子(ほうぼくし)外篇の君道(くんどう)巻第五の中に、「左袵(さじん)がこれを見上げて、諸々の星が北辰に結ばれているようだ」とあり、天文書の中にも、「北辰星は北極にいらっしゃる五つの星である。そしてその極の中枢をとり囲んでいる四つの星を四輔(しほ)という。」とある。漢の甘(かん)公石申(せきしん)が星(せい)経の中で、「四輔の四つの星は、北極の中心の星を囲んでいる。まるで、君臣が礼儀を守り、万事をたすけ、万国を修めているように北辰星を助けて秩序をよく保っている」と述べ、また、「天に一つの星は紫微(しび)宮の門外の右星の南に存在する。それは天帝の神である。この星は戦場にいく人の吉凶を支配している」ともいい、また「太一(たいいつ)の星は天一の星の南にある。天帝の神である。明らかに輝く光があるので、陰も陽も合わせて、万物は豊かで、国王には吉のしるしである」ともいう。漢書の中に、「太一(たいいつ)の星を祀る時は昏(くれ)より明(あけ)までである」とあり、また、霊柩(れいすう)経の中に、「太一(たいいつ)の星のことが詳しく記してある。一見の余地がある」とある。また、暦の中に、「天一(てんいつ)の星は天上にある」ということがあり、春秋命(めい)暦の中にも、「天一とは地皇(ちこう)の霊である。太一とは人皇(じんこう)の霊である。これらを尊星とする。共に天上の紫微宮の門外にいらっしゃって、左の方を天一、右を太一という。天一は戦いを支配してその吉凶がわかり、太一は風雨、旱ばつ、戦争、飢え病気を支配する。」とある。陰陽(おんよう)書の中に、「天一は己酉(つちのととり)の日に天より来て、東北の中枢に六日居て、人頭蛇身と化す。(中略)癸巳の日より十六日間、天に上り、大微(たいび)、皇天(こうてん)、紫房(しほう)などの宮殿にいき、己酉の日より地に下り、八方にめぐる。角(すみ)に六日、方に五日、都合四十四日で運行は終わる。それがめぐっている方角はすべて邪魔することはいけない。慎んで迎え、犯すことはいけない。このことは天一、太一の分身が地に降って、また天に上るということである。その本体は動かれず、もとより北辰尊星は一体であって、それが分身し、人間が吉事をすると福寿を授け、悪事をすれば罪禍を与えなさる。」とある。張景岳西志(ちょうけいがくせいし)の中に、「中宮は天の極星で、その一つの明るい星は太一がいつも居なさるところである。太(たい)とはもっとも尊い称号であり、一とは万物の始め、天元の主宰者である。だから太一という。それは北極星のことである。北極は中心に居て動かない。北斗は外をめぐる。七星の杓(しゃく)をめぐって、十二辰(しん)を作り、季節を作る。これらを北極星が統轄するので北辰という。北辰尊星は北極紫微宮の中にいらっしゃって、その別名を天極という。その〓星(しせい)は天の中心である。天運は際限がなく、日、月、星は相互に輝いて、北辰尊星は動きなさらない。それは天上の天子である。だから諸々の星の中の最勝ですぐれていらっしゃる。この北辰妙見星は、めぐった跡を北方の七宿に変えなさる。これを北宮玄武(げんぶ)という」とある。朱子語類の中に、「玄は亀(位置は北方にあるので玄という)、武は蛇(身体に鱗甲があるので武という)である」という。史記天官志(てんかんし)の中に、「北方玄武」とあり、抱朴子(ほうぼくし)の中に、「辰星(しんせい)は水の精、玄武を生む」とある。蔡〓(さいよう)が月令(がつれい)章句の中で、「北方玄武は介虫(かいちゅう)の頭(かしら)である」という。また文選(もんぜん)の思玄賦(しけんのふ)の註の中で、翰(かん)が「亀と蛇と混合しているものを玄武という。北辰の神獣である。」ともいう。また楚辞の中で、「玄武は召して所属すると、註には北方の七宿亀蛇とある。これは斗宿、牛宿、女宿、虚宿、危宿、室宿、壁宿の形でいう」とある。また後漢書の中に、「玄武は北方の神、亀蛇の合体である」とあり、また「水神の名である」ともいう。これは北方の水のことをいっている。酉陽雑俎(ゆうようざっそ)後集三の中に「朱道士(しゅどうし)というものが、大和八年にいつも慮山に遊んだ。澗石(かんせき)で休んでいると、忽ちうずくまった竜が錦を重ねているようであったのを見ている中に、にわかに変化して巨亀となった。山叟(さんそう)に尋ねると『これが玄武である』という」とある。
そもそも妙見菩薩は北辰尊星である。五雑俎(ござつそ)巻の一の中に、「中宮は天の極星帝星という。つまり、玄武は北辰尊星がお住まいになる北方七宿の尊形で、それは北方の神霊であり、また北辰尊星のご出現ともいうべきものである。だから北辰を玄武真君ともいう。そもそも、北辰星は帝星であり、君位(くんい)である。北斗七星は臣位(しんい)であって、天をめぐり、賞罰(しょうばつ)を下界に降している。北辰は帝星であり、仙教であって、上帝(しょうてい)として尊称している。儒教でもまた上帝という。だから、周易、尚書、毛詩、周礼、礼記、春秋などを漢の儒者が、これを講釈するときに上帝とあるところを必ず太一(たいいつ)北辰を指して講釈する。わが仙教においては太上真君上帝と尊称して尊んでいる。本尊は北辰星である。
だから神咒経の中に「神仙の中の仙と説かれるのは神仙の中において上首(しょうしゅ)の神仙という意味である。そもそも神仙の至教(しいきょう)は修煉(れん)、服食、長生、不死などをもって極要(こくよう)とするものではない。ただ清浄無為真一(ぶいしんいつ)の霊旨を悟ることを極要とするのである。真一とは仏教では仏心仏性をいい、禅家では本来の面目とも主人公ともいい、儒教では性という。この真一を悟ると仙人とも真人(しんじん)とも神仙ともいう。神道で唯一というのもこのことである。この真一を悟るとすぐにでも北辰妙見太一尊星の神慮が伺うことができる。だから、神仙の本尊と称して尊び敬うことが肝要である。それで北辰神武真仙とも称し、太上真武上帝(たしょうしんぶしょうてい)とも、太一(たいいつ)天帝とも、天一真君(てんいつしんくん)とも、太一救苦(たいいつきゅうく)天尊とも、元始(げんし)天尊とも、太乙虚無(たいいつきょむ)真君とも、紫微(しび)北極天帝とも、三清玉(さんせいぎょく)帝とも、消〓解厄(しょうさいかいやく)天尊とも、天猷真武太素三元太上玉晨大道(てんゆうしんぶたいそさんげんたじょうぎょくしんたいどう)神君とも、北方鎮天(ちんてん)真武霊応真君とも尊称している。その聖降日(しょうごうにち)は道書に記されている。近くは事林広(じりんこう)記巻の四(別集)にも見えている。
宋朝会要(そうちょうかいよう)の中に、「宋の天禧二年閏四月、真宗皇帝の仰せによると、醴泉の祥原観(しょうけんかん)を建て、六月に真武の号を寄せ、真武霊応真君と称した」という。
五雑俎(ごぞうそ)巻十五の中に、「真武は玄武である。宋の時、諱をやめて真武とした。後に地を掘って、亀蛇を手に入れたので、廟を建てて北方を鎮めた。今に(宋朝より明朝まで)なって天下の人々はすべて尊信したという。しかし、この北辰霊星は周の武王の代より祀っているので、周制に、仲秋に霊星を国の東南(たつみ)に祀ったという。また、事物紀原の一の中で、「漢の高祖天下を平定し、天下に仰せて、北辰霊星の祠を立て、五穀豊饒を祈った」という。だから、三千年来、この北辰尊星を今に至るまで、敬い尊びなさることは和漢もみんな同じである。
先代旧事(くじ)本紀第七十一神社本紀の中に、「父忍国(ちちぶのくに)に大星(おおほし)神社がある。豊浦宮(とよらのみや)天皇の時、北辰がこの地に降りなさってお告げになるには「私は北辰の精である。妙見菩薩という。天下一切の事、至心より、わが魂(ことだま)を祀れば幸福でないことはなく、すべての事は成就する。この国の人は昔からわが名を呼んで、天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と呼んでいる」という。よって、祠を立てて祭ったとある。豊浦宮天皇は十四代仲哀天皇である。その後三十四代推古天皇の御代に、北辰霊星を勧請されて、社を慈覚大師が崇敬なさって建立された。また、七十八代二条院永万元年、鶴岡八幡宮のお告げによると、北辰妙見を鎌倉に勧請された。昔は妙見寺(また霊岩寺と号す)の寺域の四方にあった。また肥後国八代(やつしろ)郡神宮(じんぐう)寺、または周防国氷上(ひかみ)山、長門国桂木山などとあってその他は、記しても尽きない。みんな古代より勧請して崇敬された。この妙見薩〓(さつた)を神仙の祖とし、本尊とすることは、なお深く詳しく説きたい。