そもそも君子のあやまちは日蝕や月蝕のようなものである。あやまった時は人はみんな見るし、改めた時は仰ぎみるという。
孔子が言うには、「すぐれていることだ。堯(ぎょう)王はただ天を大なるものとしている。そしてそれを手本としている。すなわち堯王は天に真理を求めている。天とは北辰妙見菩薩と見たらよかろう。そのわけは北辰妙見が人の王たる者を訓(おし)へさとされることで、このことは神咒経の中に常にみることができる。
この北辰尊星の教えに従って法則を作り、国を治める時は、堯のような聖天子だと言ってもよい。また、「人為を用いないで自然に天下が治まる時はそれこそ舜王の治政であろうか。その王は人為で何をしようか。自分をうやうやしくして、正しく南に向かっているだけである。舜帝のような聖王が人為を用いないで自然に天下を治めなさるのも、また北辰が定位置にあって諸々の星が北辰に対しているようなものといってよかろう。人君(じんくん)となる人はこのことを知りなさるがよい。
神咒経の中に、「国に賢者があれば、登用するがよい。賢者を敬い、聖者を尊ぶに、父母に対するように、王は自ら政治に臨み、事を決断し、民物(みんぶつ)をよこしまにせず、明鏡のように事に当れ」とある。
また、北辰妙見菩薩が多くの国の君王に教え諭して言われるには、「その国に賢者があれば召出しなさい」と。
孟子の公孫丑(こうそんちゅう)章句の上に、「孟子が言うには、賢者がおるべき場所にあり、才能のある人物が当職についていて、国家が治って静かな時にこそ政治や法律についてはっきりさせるといかに大国といっても、その国に対しては怖れつつしむことになるだろう」とある。
朱子の註に「賢者は徳のある者を臣下の位に召し抱えると、君主を正しく導き、俗者を善行に結びつける。能者は才能のある者を適職に置き、政治を修め、事業を成就するという。また、賢者を尊び、才能のある者を使い、徳行がすぐれている者を召し抱えている時は、天下の才士は喜んでその朝廷に仕えることを願っているともいう。このような意志をもって北辰妙見の国に賢者や才士があると召し出すように諭す事がよい。賢者を敬い、聖者を尊ぶには父母をみて尊敬するようにせよ」という。
「またその国の王や人君である者は自らその役所に出勤し、民の訴えを聴いて、その是非を明らかにし、万事を善い方に決断し、民物をよこしまにしないことを明白にして、明鏡のように善悪邪正を直接に照らし、私事が入らないようにすることである」という。だから、和漢において、昔は天子が自ら万民の訴えを聞かれている。ましてや、諸侯、大夫がその国において為すことは前述の通りの外何事もないにちがいない。
そもそも明鏡について、抱朴子(ほうぼくし)は、「万物の年をとった者の精が人の形に姿を変えて、人をまどわしている。しかし鏡に対してはその形を変えることはできない。狐や猩の類よりはじめて、すべてのものが年を取ると、よく化けて種々の形を作り、人を惑わすものであるが、鏡に向っては化けることができない。それは明白で私欲がなく、物を照らすが故に君主である人は政事に当っては明鏡のように明らかに判断すべきである。」という。賢を敬い、聖者を尊ぶことは無量寿経にも「聖を尊び、善を敬う」とある。
ついで神咒経の中に、「もしその国王が良く徳を修め、過去のことを明らかにし、将来のことを考え、過去の所作を悔い恥じ、自ら責めて、罪を悲しみ嘆き、三徳を修めよ。一つには三尊を敬い、二つには貧者を憐み、国土の一人住まいの老人に情けをかけて恵み、三つには怨(うら)みある者や親しい者がおる中でも心は常に平等に持ち、よこしまな怨みを断ち、民物を不平等に扱ってはならない」と説かれている。
この経の意は「もしも、どこの国の帝王でも前述しなさったように過去の非を悔(く)い、明鏡のように心を明らかにして、過去のことを改め、将来のことを考えることである。「往(おう)」とは昔のことで過ぎ去った昔より昨年まで行ってきた悪事を恥じて改めることであり、「来(らい)」とは将来のことで今日より死期までをいう。今日より未来のことに親しみ、苦しんで善事(ぜんじ)を修め、過去に作った悪事を悔い恥じて自ら心と身体をいじめ苦しめ、すべて作って来た罰をさげすみ嘆いて、自ら悔い、また三種の徳を修めよ」と説きなさった。
三種の徳については、次にように解いている。鄙悼(いやしみいたむ)ということは、玄応(げんおう)が言うには「鄙悼(ひとう)は補美(ほび)の反(かえし)に、鄙(ひ)は恥(はじ)、陋(いやし)いという意で、悼(とう)は方言として、泰晋(しんしん)では傷(いた)むことを悼(いた)むといい、悼(いた)むということは哀(かな)しむという意である。」という。
このように北辰妙見菩薩はていねいにその事をくり返して、国王たる人に教え諭しなさる。これはただ国王や天子だけの身の上や御心を慎しむことを説きなさる意義であろうか。そうではない。上(かみ)は天子、下(しも)は公卿より諸侯、大夫および一国一城、一郡一村の主より下(しも)万民に至るまで、大家小屋(たいかしょうおく)の主である者およびすべての庶民までの身の上や心の戒めを示し説きなさっているのである。それには一つのことを示してすべてのことを諭(さと)しなさっている。慎しみ恐れて信じ受け入れ、そして行い、過去のことを改め、将来のことを考えて、北辰妙見の思慮にかない、日夜護って下さるように心掛けるべきである。