幾里山歌舞伎由来

 
切山歌舞伎の由来1
宝暦2の頃、幾里山の下村東畠イノサコ家3の長重良が、摂津なには4に旅行し、竹本座の人形芝居と歌舞伎を見物してかへり、あまり立派で面白かったので、ねてもさめても忘れられなかった。ある晩、長重良の枕もとに、白髪の衣冠束帯5の神さまが現れ「切山八幡宮夏秋の祭りは淋しい。此の祭りに歌舞伎を奉納せよ。然れば切山一帯は五穀よくみのり、平和安泰である」ときかされた。目覚めて大いに奮起し、長男の三四良の地元の人達に、話した。三四良の希望もあり、財産と年月に余裕があったので、三四良をなにはに技能習得のため出して研究さした。三四良はあらゆる困難をなめる事三年、宝暦六6丙子7二十三才で帰った。此の時元文三8戌午発行の「小栗判官車街道」等の浄瑠璃本を持ち帰った。そして村の若い衆数十名を集めて教へたのが起源である。

之が上演となると、舞台や道具や衣装かづら9など相當な入費であったが、あちこち歩いて藝題の五つ六つの支度が出来た。よって宝暦七10丁丑十月八・九・の祭日にはじめて八幡宮境内仕掛小屋で、神意11通り上演したらしいと評判になり、一般部落民も喜むだ。此の時遠く富田・田布施方面からも見物に来た。此れから毎年秋祭に又二三年もして、夏の御田頭御幸祭12にも出演し、愈々技を磨いた。

幾里山歌舞伎はこのようにして、神意によってこれから地方的に改善工夫して発達したもので、郷土豊かなものである。
ところが、嘉永四年13の頃、毎年祭の行事もすたれ農耕作を厭る者も天明三年14四年頃、切山地方の田畑に虫害夥しく発生した。悪疫も流行した。占を見れば、之は「神佛の教へに順はぬので、その祟りである」との事で、部落の者が相集り、鳩首相談の結果、虫封じの為、虫納荒神15を虫森山に祀り、春四月七・八日を祭日とした。之れから毎年祭礼を行ひ、春祭とした。また、此の時豊作を祈願して、地主兼安七右衛門が桃林寺16に石地蔵尊を、八幡宮に石燈籠を寄付したので、その祝をかねて盛大に「寿式三番叟17」を始め「蘆屋道萬大内鑑18」「御所桜堀河夜討19」「義経千本桜20」「菅原伝授手習鑑21」等を上演した。此の頃弟彦八・喜八・利右衛門等兄弟三人が手合し、相當の者であったが上演した。切山八幡宮は寛政八22丙辰歳火災にあい再建、上棟式を飾る為十二月二四・五23両日仮舞台を境内に設け、「平仮名盛衰記24」「本朝二四孝25」等を上演した。寛政十年戌午に、猊犬を寄贈した。祝にあって「奥州安達原26」「仮名手本忠臣蔵27」等を上演三日に亘った。そうして何かあると、例祭の外に此の地は勿論、所望により近郊に上演した。山本一家は挙って歌舞伎指導の立場にあったが、中でも利右衛門は子も無く兄弟中の末子であり、家に系累も無く指導者として申し分が無かったので、檀那寺28誓教寺に参り所感を述べ、過去帳所蔵の通り、祖師親鸞聖人29の旧蹟をたずね、神社仏閣参拝を名として、妻と共に相携て戒名正園・妙正を残し、文化元年30甲子三月十二日、なんばに向け出発した。同五年31戌辰三月、夫は歌舞伎の、妻は三味の腕を磨いて帰郷した。利右衛門は帰郷後、益々歌舞伎の指導に努めた。依って以後、迫家のその道の芸人輩出、浄瑠璃はもとより、妻は三味の腕を磨き、子孫相継でその技に秀でた。喜八の子宇八は三十才で病没したが、その子八五郎は殊に優れた指導者であった。

文化十四年32丁丑の歳は、切山地方は大旱魃で、道辺の草も枯れ、文政五年33壬午頃には、特に悪疫さへ流行した。その時にも歌舞伎によって神意を慰めた。此の文政の終り頃より、各小字に神社を祀った。添谷大歳社・高山の大歳社・大原厳島神社・下村の厳島神社・峠市人丸神社・宮本の荒神社等は之れであり、下村の厳島神社は、藝の山本一家の主唱による建立であると伝へられる。此れら神社には、それぞれ歌舞伎移動舞台を造り、祭の最終日に八幡宮に集結して、夜を徹してその技を競った。宮本中郷の移動舞台は、大型で伝承的の物である。

此の歌舞伎の家を継ぎ、隆盛時代に育った山本八五郎、芸名「と鶴」は惜しい事に子供が一人も無いので、四国八十八ケ所に願むでと四国遍路を思い立ち、三ケ月余りもかかって帰ったが、その時伊予の今治地方で歌舞伎を見て感激し帰って、天保二年34辛卯歳二十七才で再び今治に赴き、一年余り研究して帰った程の熱心家であった。帰ってから独持伝承の歌舞伎の衣装等の補完修理に努め、「浄瑠璃の会」を樹立したりして興隆を図った結果、立派な弟子が沢山出来、他所からも訪ね来た。八五郎は浄瑠璃も出来、妻ぬいは三味も上手であった。二人とも揃った一対で、八五郎の得意は「静御前」であった。申し子として生れる事、共に一人子で大変歌舞伎が好きであったので、子供には三味を習わせて、歌舞伎をさしたが、本人は舞台に立つ事は無かった。

明治三十年一月兼安浅二郎口述
河本振一記す

―――注記――
1) 幾里山→霧山→切山
2) 宝暦→一七五一年から一七六三年までの期間 二六四年前(2015年)
3) 猪の迫→イノサコ
4) 奈には→浪花
5) 衣冠束帯→直衣と束帯を着けた正装
6) 宝暦六→一七五六年
7) 丙午→丙子と思われる
8) 元文三→一七三八年
9) かづら→かつら
10) 宝暦七→一七五七年 十月八日 土曜大安 十月九日 日曜赤口
11) 神意→神の心、神の意志
12) 神官が田圃に行き、各人の所有する田の要所要所で祝詞をあげ、御幣を田の畦に立てて、虫がわくことを防ごうとする祈祷
13) 嘉永四→一八五一年 吉田松陰、佐久間象山塾に入門
14) 天明三年→一七八三年 浅間山で大噴火。死者約二万人。大飢饉が更に深刻化。
15) 荒神→日本の民間信仰において、台所の神様として祀られる神格の一例
16) 桃林寺→曹洞宗、山号を仙寿 熊毛郡小周防村渓月院 十六世石峯和尚開山
17) 「寿式三番叟」→翁、千歳、三番叟が現れ、格調高い舞を見せ、その後五穀豊穣を祈ってめでたく舞い納める
18) 「蘆屋道萬大内鑑」→浄瑠璃。竹田出雲作。信太の森の白狐が安倍保名の妻となった伝説に取材
19) 「御所桜堀河夜討」→土佐坊昌俊が源頼朝の命により義経を襲撃した堀川夜討の浄瑠璃
20) 「義経千本桜」→源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く
21) 「菅原伝授手習鑑」→平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く
22) 寛政八→一七九六年
23) 十二月二四・二五日→二十四日 土曜大安 二十五日 日曜赤口
24) 「平仮名盛衰記」→源平の戦いを背景に、木曾義仲の討死にと、その残党樋の復讐
25) 「本朝二四孝」→武田信玄と上杉謙信の戦いや、中国の二十四孝の故事にちなんだ物語
26) 「奥州安達原」→前九年の役をもとに、源家の武将義家と朝敵安倍貞任の対立を描いた作品
27) 「仮名手本忠臣蔵」→浄瑠璃。十一段。寛延元年(1748)大坂竹本座初演。赤穂義士のあだ討ちに取材したもの。切山歌舞伎では大序から六段までを上演。
28) 檀那寺→檀信徒(檀家)の布施、すなわち檀那(旦那)によって運営される寺
29) 親鸞上人→鎌倉前・中期の僧。浄土真宗の開祖
30) 文化元年→一八〇四年 三月十二日 土曜日友引
31) 文化五年→一八〇九年
32) 文化十四年→一八一七年
33) 文政五年→一八二二年
34) 天保二年→一八三一年