塩づくりのはじまり


 江戸時代の下松は、どんなところだったのでしょうか。

 江戸時代1、長州藩(ちょうしゅうはん)(毛利家(もうりけ)が治めた今の山口県)では、米や塩、紙などを作って生活をゆたかにしようと努めました。下松では、干拓2により塩田3をつくりました。笠戸湾(かさどわん)は、笠戸島や大島半島にかこまれて海がおだやかで雨も少ないことから、塩づくりにてきしています。そのため、下松の海岸はほとんどが塩田として開作4されていきました。塩田によって明治時代5まで続いた塩づくりは、下松の発てんのもととなりました。
 下松の塩田開作で有名なのは、戦国時代6に九州からやって来て海運業7をいとなんでいた磯部家(いそべけ)8です。磯部家は、宮洲開作(みやのすがいさく)をはじめとして数々の塩田を開作し、全国の長者番付9にのるほどの大金持ちになりました。そして、徳山藩(とくやまはん)(下松の一部・徳山などを治めていた毛利家)を助けたり、武士のあつかいを受けて藩のお金をまかせられたりするほどになりました。このことは、「宮洲(みやのす)塩田図」や「覧海軒図(らんかいけんず)」などの古い絵図からもうかがい知ることができます。
 覧海軒図(らんかいけんず) 山口県立山口博物館蔵…塩田と磯部家(いそべけ)の屋しきの様子がえがかれている。

ことば
1 江戸時代
  1603年から1867年までの時代。
2 干拓
  浅い海を堤防で囲み、内部の水をぬいて陸地にすること。
3 塩田
  塩をつくる田。
4 開作
  長州藩では、干拓やあれ地、山林を切り開いて田畑にすることを開作という。
5 明治時代
  1868年から1913年までの時代。
6 戦国時代
  1500年ころから1590年ころまでの、いくさばかりの時代。
7 海運業
  船で荷物を運ぶ仕事。
8 磯部家
  磯部家が下松にやって来たのは1578年。その後1703年に塩田を始め、「宮洲屋(みやのすや)」と名乗るようになった。
9 長者番付
  お金持ちのランキング。

 全国の長者番付にのるほどだったなんて、すごい!

「宮洲(みやのす)塩田図」山口県立山口博物館蔵
 江戸時代の終わりごろ(1812年~1831年ごろ)に磯部家(いそべけ)が持っていた塩田、田、畑などがえがかれている。分かりやすく色分けされており、石高(米や塩のとれる量)や広さもかきこまれている。


 このあたりは、ぜんぶ磯部家のものだったんだね。

「島の学(まな)び舎(や)1」の職員さんの話
 1802年、磯部家が宮洲(みやのす)山(現在の桂木(かつらぎ)山)のふもとを畑にしようと開発しているとき、土の中から中国製の高価な鏡3つと日本製の鏡1つがあらわれ、4世紀初めごろにここに古墳2がつくられていたことが分かりました。この鏡は、中国と交流のあった近畿(きんき)地方の有力者から海上交通の進んだ地方の有力者に配られたものと考えられています。4つの鏡は国指定の重要文化財に指定され、今は東京国立博物館にほかんされています。

ことば
1 島の学び舎
  平成26年3月に閉校した江(え)の浦(うら)小学校の校舎を使って、昔の物などを集めた資料館。平成28年10月開館。
2 古墳
  土を高くもり上げた、大むかしのはか。

三角縁盤龍鏡(さんかくぶちばんりゅうきょう)

三角縁神獣鏡(しんじゅうきょう)

三角縁神獣鏡

大正初期の下松笠戸湾岸の全景(戸取征二郎氏 作成)

写真は山側からとっているよ。

今の地図と比べてみよう。