塩田の終わり


 たくさんあった塩田は、なぜなくなったのでしょうか。

 外国の安い塩が輸入されるようになると、塩田の経営は苦しくなっていきました。そして1905年(明治38年)6月、戦争で使うお金にするために塩の専売制1が始まり、塩の生産は全て国が管理するようになりました。
大正時代2になると、区画の小さい塩田は整理され、なくなっていきました。磯部家(いそべけ)の屋しき(約3,000坪つぼ=約10,000平方メートル)は、1888年(明治21年)に矢嶋作郎(やじまさくろう)に売られていましたが、その後彼の婿養子の矢島専平(やじませんぺい)が受けつぎ、やがて工場のしき地になりました。
 清(しん)(今の中国)との戦争に勝ったことで、台湾産の安い塩がたくさん輸入されるようになったんだよ。

人物紹介
矢嶋作郎
 明治元年、旧徳山藩主毛利元功公(きゅうとくやまはんしゅもうりもといさこう)とともにイギリスに留学し、1872年(明治5年)、日本で最初の紙のお金を印刷しました。
 その後、銀行や紡績会社3、東京電燈(でんとう)(現東京電力)などをつくりました。
 退職後は、下松市宮洲(みやのす)でくらし、和歌の会をつくるなどして過ごしました。

矢島専平
 矢嶋作郎の娘の夫。矢嶋作郎の財産を受けつぎ、旧宅地を東洋鋼鈑(とうようこうはん)にゆずるなどして「ものづくりのまち下松」のもとをきずきました。下松の大地主であっただけでなく、代議士(国の政治家)としても活やくしました。



ことば
1 塩の専売制
  安い外国産の塩に対して国内の塩作りを守り、日露戦争の費用にするために、国が塩を売る仕組みが作られた。
2 大正時代
  1912年から1926年までの時代。
3 紡績会社
  綿や羊毛、麻などを糸にする会社。