くだまる ものしりコーナー ~久原房之助(くはらふさのすけ)~
久原房之助は、下松をどんなまちにしたかったのでしょうか?
~下松大工業都市の夢に向かって~
久原房之助は、1869年(明治2年)、萩(はぎ)で生まれました。
房之助は、叔父 藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)の会社、藤田組を経て、1912年(大正元年)には久原鉱業株式会社を、その3年後には日本汽船(にほんきせん)株式会社をつくりました。そして、造船1・製鉄業2などによる世界的大工業都市の建設をめざしていきました。
1918年(大正7年)3月、計画の中止が発表されたとき、日本汽船笠戸造船所(かさどぞうせんしょ)だけありましたが、造船から鉄道車両の生産に方向を変え、それが後の日立製作所笠戸工場(ひたちせいさくしょかさどこうじょう)へと発てんしました。
その後、建設予定地には、日本石油(にほんせきゆ)下松製油所と東洋鋼鈑(とうようこうはん)下松工場が進出し、下松の工業都市としての歴史が始まりました。
さらに、ものづくりをする若者の教育のために、房之助は多くのきふ(33万円:当時)をし、1921年(大正10年)、下松工業学校(現在の下松工業高校)がつくられました。
房之助は政治家として活やくし、97歳でなくなりました。
ことば
1 造船
船をつくること
2 製鉄業
鉄をつくる仕事
1 造船
船をつくること
2 製鉄業
鉄をつくる仕事