下松の工業都市化


 久原房之助(くはらふさのすけ)には下松出身の祖父1がいました。
 1917年(大正6年)6月、久原房之助は、広い塩田跡地と使いやすい港2、そして山陽(さんよう)本線3の駅や銀行がある下松に目を付け、下松をイギリスのマンチェスター⁴のような巨大な工業都市にしようという「下松大工業都市建設計画」5(通称「東洋(とうよう)マンチェスター計画」)を発表しました。そして、塩田跡地や田畑を次々に買い取っていきました。しかし、3か月後の9月、アメリカが鉄鋼の輸出を禁止6したため、よく年3月11日、久原房之助は下松大工業都市建設計画の中止を発表しました。
ことば
1 下松出身の祖父
  祖父は中市で造り酒屋(酒をつくって売る仕事)をしていた。
2 使いやすい港
  下松港は、笠戸島と宮洲(みやのす)、大島半島にかこまれて波がおだやかであり、大型船が入港できる十分な深さもある。
3 山陽本線
  1897年(明治30年)、山陽鉄道株式会社が神戸・徳山間に鉄道をしき、1902年(明治35年)に下関までの区間が開通した。そして1906年(明治2年)に国鉄山陽本線となった。
4 マンチェスター
  世界でいち早く工業化したイギリスの都市。
5 下松大工業都市計画
  現在の周南市(しゅうなんし)までをふくむ約160万坪を買い取り、18万人がくらす大工業都市にしようとした計画。
6 鉄鋼の輸出を禁止
  第一次世界大戦開戦の3年後、アメリカは武器などをつくるために鉄鋼の輸出を禁止した。下松大工業都市には、アメリカの鉄鋼が必要だったため、計画を中止せざるをえなかった。

下松計画概要図「久原房之助」(日本鉱業株式会社)より

 新しい機械が次々に発明され、にぎわいを見せるマンチェスター(当時)の工場の様子