日本石油下松製油所は、1930年(昭和5年)4月、宮洲開作(みやのすがいさく)塩田跡地につくられ、仕事を始めました。
第二次世界大戦の終わりごろになると、日立や日石などの工場群はアメリカ軍からくり返し空襲1を受けましたが、力強く立ち直り、1971年(昭和46年)には新しい工場をつくるために、うめ立てが始まりました。そのときの最大の問題は環境保全対策2でした。市は日立(ひたち)、日石(にっせき)両社と公害防止協定3を結むすぶとともに、地元の恋ヶ浜(こいがはま)地区住民の集団移転と、跡地に緩衝緑地公園4をつくることを決めました。住民の移転先は、中央町(ちゅうおうちょう)(旧末武(すえたけ)貯油所5の跡地)です。
その後、製油所は石炭中継基地へと引きつがれ、全国各地に石炭をとどけています。
ことば
1 空襲
飛行機でばくだんを落とすこと。
2 環境保全対策
環境を守るための対策。
3 公害防止協定
排水や騒音、空気の汚れなどの公害に関する住民の不安をなくすために、1972年(昭和47年)に市が工場と結んだ約束。公害による苦情件数は1972年(昭和47年)が70件で最大だったが、その後少なくなった。
4 緩衝緑地公園
公害を防止するためにつくられた公園。
5 末武貯油所(すえたけちょゆしょ)
11基の石油タンクがつくられた所。石油タンクがなくなった後、日石広場(にっせきひろば)と中央町になった。その後、日石広場は下松タウンセンターとなり、そこにできた西友は今はゆめタウンとなった。
1 空襲
飛行機でばくだんを落とすこと。
2 環境保全対策
環境を守るための対策。
3 公害防止協定
排水や騒音、空気の汚れなどの公害に関する住民の不安をなくすために、1972年(昭和47年)に市が工場と結んだ約束。公害による苦情件数は1972年(昭和47年)が70件で最大だったが、その後少なくなった。
4 緩衝緑地公園
公害を防止するためにつくられた公園。
5 末武貯油所(すえたけちょゆしょ)
11基の石油タンクがつくられた所。石油タンクがなくなった後、日石広場(にっせきひろば)と中央町になった。その後、日石広場は下松タウンセンターとなり、そこにできた西友は今はゆめタウンとなった。
JXTGエネルギー下松事業所は、海外から輸入した石炭を積みかえて、国内の発電所に運ぶ中継基地です。
日立や日石などの工場群は、戦争中どうして何度も空襲を受けたのかな? |