くだまる ものしりコーナー ~下松べんけい号~
市役所前広場にある蒸気機関車を知っていますか?
~明治時代の遺産 国産の蒸気機関車1~
下松べんけい号は、1907年(明治40年)に生産されました。現在、日本にある国産の蒸気機関車としては3番目に古いものです。大正時代には、徳山海軍練炭製造所(後の海軍燃料廠3)で石炭を運ぶために使われていました。
そして1934年(昭和9年)に、下松工業学校(今の下松工業高等学校)にゆずられ、実習教材として使用されました。
第二次世界大戦中、徳山市街地(とくやましがいち)はアメリカ軍による2度のばくげきによって多くのものがこわされてしまいましたが、べんけい号はこのときすでに下松にあったのできせき的に残ることができました。
ことば
1 蒸気機関車
石炭をたき、蒸気の圧力を使って列車を引く機関車
2 下工弁慶号
1951年(昭和26年)、学校の正門脇(わき)にてん示され、このころから「下工弁慶号」という名前がついたといわれている。
3 海軍燃料廠
1945年(昭和20年)まで海軍が直接管理していた、練炭生産や石油精製の工場。
1 蒸気機関車
石炭をたき、蒸気の圧力を使って列車を引く機関車
2 下工弁慶号
1951年(昭和26年)、学校の正門脇(わき)にてん示され、このころから「下工弁慶号」という名前がついたといわれている。
3 海軍燃料廠
1945年(昭和20年)まで海軍が直接管理していた、練炭生産や石油精製の工場。
戦後しばらくは、下松工業高校の機械科1実習に活用されていましたが、その後は正門横で野ざらしのまま陳列2され、大変いたんできていました。それを残念に思った教員や生徒たちは、1979年(昭和54年)、全面修復作業(完全分解→整備→組立)に取りかかりました。そして、1981年(昭和56年)、学校の創立60周年記念式典では、県知事などの前で公開運転されました。
1991年(平成3年)、下工弁慶号(べんけいごう)は下松工業高校から下松工業会(同校の同窓会3)にゆずられました。そして、その年の10月に同校の70周年で再び公開運転されました。
1997年(平成9年)、下松工業会が下松市におくったことによって、下工弁慶号は下松市役所南庭にてん示されるようになりました。
そして、2010年(平成22年)、動態保存4をめざして「走れ!弁慶号プロジェクト会議」が発足しました。次の年、この準備会議を「下松べんけい号を愛する会」と名づけ、下工弁慶号は「下松べんけい号」と愛称を変更しました。多くの市民に愛されてほしいという願いからです。
現在、下松べんけい号と下松市民は、春のスケッチ会や年末の年賀状コンクール、ミニべんけい号SL運転乗車会、各学校への出前講座などを通して、ふれあいを深めています。
ことば
1 機械科
機械の設計や加工などの基本的な知識と技術を修得する学科。
2 陳列
人々に見せるために置くこと。
3 同窓会
卒業生が集まる会。
4 動態保存
動作可能な状態で保存すること。
1 機械科
機械の設計や加工などの基本的な知識と技術を修得する学科。
2 陳列
人々に見せるために置くこと。
3 同窓会
卒業生が集まる会。
4 動態保存
動作可能な状態で保存すること。
下工弁慶号は、あちこちに貸し出され、その姿を見せてきたんだよ。岡山県の下津井(しもつい)電鉄や三重県の北勢(ほくせい)線では記念運転されたし、江戸東京博覧会の「大鉄道博物館」では大人気だったな。柳井卸(やないおろし)センターや中国電力、日立製作所にも貸し出され、てん示されたよ。 |