くだまる ものしりコーナー ~孝女(こうじょ) まさ~
下松には、ほかにどんな有名人がいるのでしょうか。
~親孝行がみとめられ、藩主からたたえられた女性~
公集小学校の近くにある、このような頌徳碑(しょうとくひ)1を見たことがありますか?ここには江戸時代の長州藩(ちょうしゅうはん)第14代藩主毛利元徳(もうりもとのり)2が、まさという親孝行な女性をほめて作った歌3がきざまれています。
たらちねを おもうこころは
ふりつもる ゆきよりもげに
ふかくは ありけむ3
元徳
ふりつもる ゆきよりもげに
ふかくは ありけむ3
元徳
1897年(明治30年)に、村の人々によって建てられた。台になっている石は、笠戸島沖浦(おきのうら)の自然石。頌徳碑が建てられるまでは、まさの行いは、木の札にすみで書いて知らされていた。 |
まさは「防長三孝女(ぼうちょうさんこうじょ)4」として有名だよ。 |
ことば
1 頌徳碑
よい行いを人々に知らせて、たたえる記念の石。
2 毛利元徳
毛利藩最後の藩主。
3 歌の意味
親を思う心は、ふりつもる雪よりももっと深かったといえるだろう。
4 防長(ぼうちょう)三孝女
周防・長門を代表する親孝行な娘。
1 頌徳碑
よい行いを人々に知らせて、たたえる記念の石。
2 毛利元徳
毛利藩最後の藩主。
3 歌の意味
親を思う心は、ふりつもる雪よりももっと深かったといえるだろう。
4 防長(ぼうちょう)三孝女
周防・長門を代表する親孝行な娘。
まさはどんな女性だったのでしょう。
まさの物語 参考「下松市の民話・伝説と民謡」
① まさは、1762年、まずしい農家の娘として生まれました。その年は、夏には干ばつ1、秋にはぼう風雨2があり、作物が実りませんでした。その後も、不作3続きで、まさは7歳くらいから母の手つだいをしました。
② 大きくなってからも、朝は海辺で魚や貝をとり、昼は田畑をたがやし、かれ木をひろい、やとわれの仕事もし、夜は父母の体をさすり、父母がねむってからぞうりを作り、なわをない、よく日の仕事の準備をしてねむりました。
③ 母が目の病気になると、それまで以上にはたらき、薬を買い、ねる間もおしんではたらきました。しかし母の目はいっこうによくならず、まさは神や仏にすがるため、毎朝水あびをして身をきよめ、おいのりをしました。またあるときは妙見宮(みょうけんぐう)4に21日間のがんかけ5をしました。
④ その21日目、まだ夜の明けやらぬうちに深浦(ふかうら)の浜から自分で小舟をこいで下松にわたり、大雪の中、中宮にたどり着ました。しかし、その帰り道、ぼう風に、かさはうばわれ、ぞうりはやぶれ、体はこごえて雪の中にたおれてしまいました。村人が見つけて手当てをし、ようやく命をとりとめました。
⑤ まさが44歳のときに父がなくなりました。長州藩第9代毛利斉房(もうりなりふさ)は、まさに、これまでの親孝行のほうびとして、米一俵6をあたえました。また49歳のとき、第10代斉煕(なりひろ)がまさに家と土地をあたえました。
⑥ 51歳のときに母がなくなりました。なくなった後も父母を大切に思い、ひまをみては近所の人達の世話もよくしました。
⑦ 96歳のとき、第13代敬親(たかちか)はまさを花岡の代官所によび出し、一生の間、毎年米一俵をあたえると約そくしました。
⑧ まさは98歳のとき、「正浦」というみょう字をあたえられ、99歳でなくなりました。
ことば
1 干ばつ
雨がふらず、長い間、水が不足すること。
2 ぼう風雨
ひじょうに強い雨や風。
3 不作
作物のできがわるいこと。
4 妙見宮
今の中宮の場所にあった。
5 21日間のがんかけ
21日間、1日も欠かさずおまいりに行くこと。「21日まいり」ともいう。
6 米一俵
約60kgの米
1 干ばつ
雨がふらず、長い間、水が不足すること。
2 ぼう風雨
ひじょうに強い雨や風。
3 不作
作物のできがわるいこと。
4 妙見宮
今の中宮の場所にあった。
5 21日間のがんかけ
21日間、1日も欠かさずおまいりに行くこと。「21日まいり」ともいう。
6 米一俵
約60kgの米
りっぱなお墓も、毛利のとのさまにつくってもらったんだよ。 |