寛政10年(1798)、六代市郎兵衛は栗橋関所への転勤を命じられる。この時、小仏関所番士の川村一学は小岩市川関所(現 東京都江戸川区)に、栗橋関所番士の落合源兵衛・源太夫親子は小仏関所にそれぞれ転勤となっている。落合源兵衛の後任として栗橋関所に赴任した6代市郎兵衛から、明治2年(1869)に関所が廃止された9代耕平まで、島田家は栗橋関所の番士として関所の管理にあたった。
関所番士屋敷図下書
(せきしょばんしやしきずしたがき)
嘉永7年(1854)
島田家文書 No.36 目録
番士屋敷内の角場(鉄砲場)での鉄砲稽古を出願した際に、目付へ提出した絵図に修正を加えたもの。関所番士冨田庫助の屋敷部分には朱書で「角場」と記されている。
角場の設置と「四季打」(通年の鉄砲稽古)は、安政2年(1855)5月に関所支配代官の林部善太左衛門によって許可された(埼玉県立文書館所蔵足立家文書No.36「御関所御用書抜 一六」)。
絵図には、栗橋関所と番士屋敷についても記されている。番士屋敷の敷地は、加藤杢兵衛が間口26間※×奥行15間、足立十右衛門が間口21間×奥行13間、島田勇次郎(9代耕平)が間口23間×奥行13間、冨田庫助が間口25間×奥行15間である。角場から関所までの距離は4町※余(約436メートル)、番士屋敷から栗橋宿までの距離は3町余(約327メートル)である。
※ 1間は約1.8メートル。
※ 1町は約109メートル。
房川渡中田御関所番人数姓名ならびに高附拝領屋敷宿所書上帳
(ぼうせんわたしなかだおせきしょばんにんずうせいめいならびにたかづけはいりょうやしきしゅくしょかきあげちょう)
未年(弘化4年、1847)
島田家文書 No.204‐24 目録
栗橋関所番士の氏名・扶持(ふち)・拝領屋敷を記した書上帳。関所番士として冨田庫助・足立十右衛門・島田勇次郎(9代耕平)・加藤杢兵衛の名が確認できる。足立十右衛門が20俵4人扶持、島田勇次郎ほか2名は20俵2人扶持である。支配代官に齋藤嘉兵衛の名があることから、弘化4年(1847)の記録と考えられる。
島田利吉手製かるた
(しまだりきちてせいかるた)
島田家旧蔵資料 目録
6代市郎兵衛の婿養子利吉の手製百人一首かるた。利吉は武蔵国葛飾郡平須賀村(現 埼玉県幸手市)の名主市郎右衛門の次男で、昌平坂学問所で学び、大田南畝(なんぽ)の門人でもあった。文化7年(1810)市郎兵衛の娘須磨と結婚して関所番見習となるが、文政元年(1818)に病没し、常薫寺(じょうくんじ、現 埼玉県久喜市)に葬られた。