関所番士は、通行手形(通行証文)を改め、通関の許可を与えた。通行手形には、鉄砲などの武器を通すための「鉄砲手形」、女性の通行のための「女手形」のほか、通関する対象に応じたさまざまな手形が発給された。
(1)鉄砲手形
鉄砲などの武器を江戸に持ち込む際には鉄砲手形が必要とされた。特に鉄砲10挺(ちょう)以上、大筒(※おおづつ)1挺以上を持ち込む場合は、幕府老中の発給した証文(老中裏印証文)がなければ通関することはできなかった。一方、江戸から外へ鉄砲を持ち出す場合は、幕府老中の許可は不要で、関所で簡単な検査を受けるのみであった。鉄砲手形には、鉄砲の種類・挺数・所有者・出立地と目的地などが記載された。
栗橋関所では、鉄砲9挺までは所有者の大名または家来の発給した証文で通関が許可された。鉄砲10挺・大筒1挺以上では、老中裏印証文、または幕府留守居(るすい)の発給する証文(留守居証文)で通された。鉄砲以外の武器類については、弓30張(ちょう)・鑓(やり)25筋・具足(甲冑などの武具)25筋(領)までは所有者または家来証文、弓31張・鑓26筋・具足26筋(領)以上は老中裏印証文、または留守居証文で通された。
※玉目(弾丸の重さ)が9匁(もんめ)(約33.75グラム)以上の鉄砲。
鉄炮忍へ通行につき老中証文
(てっぽうおしへつうこうにつきろうじゅうしょうもん)
明暦2年(1656)
島田家文書 No.202‐9 目録
鉄砲143挺を武蔵国忍(現 埼玉県行田市)まで通すための証文。証文の発給者は、忍藩主で幕府老中でもあった阿部忠秋(ただあき)である。栗橋関所に宛てられた現存する鉄砲証文のうち最古のもの。
本多山城守鉄炮通行につき証文
(ほんだやましろのかみてっぽうつうこうにつきしょうもん)
寛文3年(1663)
島田家文書 No.61 目録
陸奥国石川藩主の本多忠利(ただとし)が鉄砲30挺を陸奥国白河(現 福島県白河市)から江戸へ取り寄せるための通行証文。奏者番・寺社奉行の井上正利(まさとし)が勘定奉行の岡田善政(よしまさ)・妻木重直(つまきしげなお)に宛てて発給したもの。裏面には、老中から鉄砲の通行許可があった旨を記した岡田・妻木の裏書があり、栗橋関所を支配する伊奈氏に宛てられている。
本多忠利は陸奥国白河藩主の本多忠平(ただひら)の弟で、前年の寛文2年(1662)に兄忠平から1万石を分与され、石川藩を立藩している。
鉄炮・長柄・具足通行につき証文
(てっぽう・ながえ・ぐそくつうこうにつきしょうもん)
貞享2年(1685)
島田家文書 No.202‐15 目録
鉄砲10挺・長柄(槍)10本・具足7領を通すため、出羽国山形藩主堀田正仲(まさなか)の家臣久保田善六・間宮理左衛門が発給した証文。輸送先は不明であるが、証文の発給者が家臣であることから、武器類は江戸から山形藩まで輸送されたものと考えられる。
鉄炮百目玉筒通行につき証文
(てっぽうひゃくめだまつつつうこうにつきしょうもん)
元禄7年(1694)
島田家文書 No.202‐16 目録
百目玉筒3挺を下野国壬生(現 栃木県下都賀郡壬生町)まで通すため、壬生藩主松平輝貞(てるさだ)の家臣深尾万右衛門らが発給した証文。百目玉筒は、玉目(弾丸の重さ)が百目(約375グラム)の鉄砲(大砲)のこと。
蝦夷地御用井上左太夫手附持参鉄炮通行につき留守居証文
(えぞちごよういのうえさだゆうてつけじさんてっぽうつうこうにつきるすいしょうもん)
文化5年(1808)
島田家文書 No.202‐4 目録
井上左太夫手附(てつけ)の井上貫流(かんりゅう)と御徒同心(おかちどうしん)らの鉄砲31挺の通行証文。井上貫流は幕府の先手組堀田土佐守の組合同心で砲術師である。文化5年(1808)に蝦夷地の警備を命じられ、鉄砲方井上左太夫の手附としてロシア船の襲撃に備え、西蝦夷地の要衝である高島(現 北海道小樽市)を警護した。結局ロシア船が現れなかったため、到着から2か月足らずで引き上げることになる。証文の鉄砲は、井上らが蝦夷地警護で使用したものと考えられる。証文の発給者は幕府留守居の松浦信程(のぶきよ、越前守)で、鉄砲の通行については既に老中松平信明(のぶあき)の許可を得ていると記されている。
松平周防守所替にて武器通行につき老中証文
(まつだいらすおうのかみところがえにてぶきつうこうにつきろうじゅうしょうもん)
天保7年(1836)
島田家文書 No.231 目録
藩主松平康爵(やすたか)の移封(いほう)に際して発給された石見国浜田(いわみのくにはまだ、現 島根県浜田市)から陸奥国棚倉(たなぐら、現 福島県東白川郡棚倉町)までの武器の通行証文。証文は、康爵が老中の大久保忠真(ただざね)・松平乗寛(のりひろ)・水野忠邦(ただくに)・松平宗発(むねあきら)に宛てて発給したもの。裏面には、老中らが栗橋関所に宛てた裏書がある。
証文には鉄砲125挺をはじめ、鉄砲関係の諸道具、具足、旗各種、馬印(うまじるし)、幕、馬具、弓矢、刀、脇差(わきざし)など78品目の武器が書き上げられている。
日光表同心共砲術教授済西洋形小筒通行につき証文
(にっこうおもてどうしんどもほうじゅつきょうじゅずみせいようがたこづつつうこうにつきしょうもん)
万延元年(1860)
島田家文書 No.202‐14 目録
砲術教授に使用した西洋形小筒1挺を江戸に戻すための通行証文。この小筒は、玉目が8匁(約30グラム)の鉄砲である。日光奉行所の同心らに砲術を教授するため、幕府鉄砲方井上左太夫組与力で講武所教授方出役が預かり、日光(現 栃木県日光市)に持参した。証文は、日光奉行河尻鎭長が発給したものである。
京都守衛御用にて鉄炮通行につき証文
(きょうとしゅえいごようにててっぽうつうこうにつきしょうもん)
島田家文書 No.67 目録
京都の守衛御用として鉄砲2挺を通すため、陸奥国会津藩の春日弥惣兵衛が発給した証文。会津藩主松平容保(かたもり)は文久2年(1862)閏8月に京都守護職に任命され、同年12月に上京した。慶応3年(1867)12月に罷免となるまで、藩兵1万人が京都に常駐し、洛中の治安維持と御所や二条城の警備を担った。
(2)女手形
江戸を出て関所を通過する女性には、幕府留守居が発給する女手形が必要とされた。女手形には、女性の身許(みもと)・人数・乗物(のりもの)の挺数・出立地と目的地・手形申請者のほか、禅尼(ぜんに、貴人の後室または姉妹の剃髪者)・尼(一般の剃髪者)・比丘尼(びくに、伊勢上人・善光寺上人の弟子または貴人の召使、熊野比丘尼など)・髪切(かみきり、髪を切っている者)・小女(こおんな、振袖を着ている者)の別、懐胎(かいたい、妊娠)何か月・鉄漿付(かねつけ、お歯黒)などが記載された。女手形の有効期間は原則2か月である。記載内容に相違がある場合や有効期限が切れている場合には通関は許可されず、差し戻されることになる。
関所で改められた女手形は、当番の関所番士二人で確認した後、手判簞笥(てはんたんす)に保管され、留守居に返納された。
移封などで大名家家臣の妻女や召使の女性が通行する場合は、大名家からあらかじめ通行する女性の人数内訳を記した帳簿と家老の印影(判鑑、印鑑とも)が幕府留守居に提出された。留守居の発給した女手形と人数内訳の帳簿は、支配代官から関所に通達され、女性達は家老の印鑑が押された仮手形で通行した。
松平下総守所替にて家来妻子下女通行につき留守居証文
(まつだいらしもうさのかみところがえにてけらいさいしげじょつうこうにつきるすいしょうもん)
慶安元年(1648)
島田家文書 No.202‐43 目録
藩主の移封に際して発給された家臣の妻子や召使の女性の通行証文。栗橋関所に宛てられた現存する証文のうち最古のもの。
藩主松平忠弘は慶安元年(1648)に播磨国姫路藩から出羽国山形藩に移封となった。証文は幕府留守居の杉浦正友(まさとも、内蔵允、くらのすけ)・酒井忠吉(ただよし、紀伊守)の発給である。
裏書の署名にある生田九兵衛ほか8名は、いずれも松平家の家臣と考えられる。
本多中務大輔所替にて家来妻子ならびに召仕の女通行につき留守居証文
(ほんだなかつかさたいふところがえにてけらいさいしならびにめしつかいのおんなつうこうにつきるすいしょうもん)
正徳2年(1712)
島田家文書 No.202‐6 目録
藩主の移封に際して発給された家臣の妻子と召使の女性の通行証文。藩主の本多忠良(ただよし)は正徳2年(1712)に三河国刈谷藩から下総国古河藩に移封となっている。証文は幕府留守居の松前嘉広(よしひろ、伊豆守)・大久保教福(のりとみ、淡路守)・大嶋義也(よしなり、肥前守)・久貝正方(くがいまさかた、因幡守)・三枝守治(もりはる、摂津守)・松平昭利(主計頭、かずえのかみ)の発給である。
証文には家臣の妻子と召使の女性の通行について、本多忠良から照合用の判鑑(はんかがみ)が送られているので、女性の通行の際には、留守居の手判と引き替えるよう、月番老中の井上正岑(まさみね)から指示があったと記されている。
近衛内大臣養女下向につき留守居証文
(このえないだいじんようじょげこうにつきるすいしょうもん)
慶応3年(1867)
島田家文書 No.202‐39 目録
内大臣近衛忠房(ただふさ)の養女純君(近衛徳子)の通行証文。純君は公卿の広幡忠礼(ひろはたただあや)の娘で、13代仙台藩主伊達慶邦(よしくに)の養子宗敦(むねあつ)との婚礼のため、京都から仙台へ下向した。
証文には、事前に老中松平康英(やすひで)からは純君の輿(こし)は改めない旨の通達があり、お供の女性については、通常通り改めを行うようにとの指示が記されている。証文の発給者は幕府留守居の跡部良弼(あとべよしすけ)である。
在府大名妻子帰国通方につき申渡
(ざいふだいみょうさいしきこくとおしかたにつきもうしわたし)
亥年(文久3年、1863)
島田家文書 No.5 目録
大名の妻子の通行について、代官らが関所番士に宛てた指示書。栗橋関所には代官の佐々井久保からの写しが与えられた。この指示書によれば、万石以上(大名)の女性の通行には、従来は留守居証文が必要であったが、藩主の印紙で通行できることになった。印紙には女性の人数のみで、小女・髪切・尼・鉄漿付などの別も記載不要とされた。
幕府は、文久2年(1862)に参勤交代の緩和を打ち出し、大名の妻子についても、国許への帰国が許された。
コラム 里通いの女
女性が関所を通る際は、幕府留守居の発給する女手形が必要とされた。女手形の入手方法は、江戸町人の女性の場合、江戸市中の町奉行支配地であれば、まず保証人を立て、町年寄の加判した書類をもって町年寄から町奉行所へ留守居証文発給が申請される。その後、町奉行所から幕府留守居へ書類が送られ、留守居証文が発給されることになる。それ以外の女性の場合は、代官支配地であれば代官所へ、領主支配地であればその領主へ申請するなど、女性の留守居証文の入手には一定の手順を要した。
栗橋関所近隣に住む女性については、寛永10年(1633)に関所支配の代官である伊奈忠治から栗橋関所に宛てられた覚書(埼玉県立文書館所蔵足立家文書No.176「覚(隣郷里通い女改ニ付)」)によって、関所の対岸に嫁いだ女性が里(実家)や親戚を訪ねる場合は、名主を保証人として日数限定で通行できるよう便宜が図られた。女性が嫁ぐ際は留守居証文で関所を通行したが、その後は関所が発給した里通いの証文で通行することができた。
(3)さまざまな手形
関所手形は、通関する対象に応じて、さまざまなものが発給された。特に乱心(らんしん)・手負(ておい)・囚人・首・死骸が江戸から出るときは、男女ともに留守居証文が必要となった。元禄10年(1697)9月に幕府留守居水野忠顯(ただあき)らが栗橋関所に宛てた「関所手形可書載覚」(埼玉県立文書館所蔵足立家文書No.6「御関所御用諸記」)では、乗物・女・乱心・手負・囚人・首・死骸は留守居証文に記載する旨が通達されている。
江戸に入る乱心・手負・囚人・首・死骸について、栗橋関所では宝永3年(1706)5月段階では附添(つきそい)の口上断り(こうじょうことわり)で通行することができたが、文政3年(1820)3月に乱心・手負は留守居証文、元文3年(1738)7月に囚人は附添の証文、享和3年(1803)7月に首は留守居証文で通されることになる。囚人の死骸は、寛政3年(1791)11月段階では、幕領は代官の証文、旗本領は旗本の証文、大名領は大名の家臣の証文で通された。このほか、男性に対する関所手形がある。男性の関所手形は、一般男性の場合は住んでいる村や町の名主が、武士の場合はその上司が発給した。しかし、男性には関所手形の携帯義務はなく、簡単な取り調べのみで関所を通行することができた。
乱心女通行につき証文
(らんしんおんなつうこうにつきしょうもん)
宝暦13年(1763)
島田家文書 No.202‐41 目録
乱心した女性の通行証文。女性は、三河国岡崎藩主松平康福(やすよし)の家臣田原弥太夫の姪で、下総国古河(現 茨城県古河市)から三河国岡崎(現 愛知県岡崎市)まで乗物(駕籠)で運ばれている。証文の発給者は松平の家臣西川兼右衛門である。藩主の康福は、前年の宝暦12年(1762)9月に古河藩から岡崎藩に移封となっていることから、弥太夫の姪は移封後に岡崎に引き取られたものと考えられる。
手負百姓通行につき証文
(ておいひゃくしょうつうこうにつきしょうもん)
寛文9年(1669)
島田家文書 No.60 目録
怪我をした那須藩領の百姓を、江戸から下野国那須(現 栃木県那須市)へ戻すための通行証文。証文の発給者は那須藩主那須資弥(すけみつ)である。
囚人通行につき証文
(しゅうじんつうこうにつきしょうもん)
文政12年(1829)
島田家文書 No.76 目録
囚人の通行証文。勘定奉行曾我助弼(すけまさ)の指示により、囚人二人は水原陣屋(すいばらじんや、現 新潟県阿賀野市)から江戸まで目籠(めかご、囚人用の駕籠)で護送されている。証文の発給者は水原代官の林政幸である。
首通行につき証文
(くびつうこうにつきしょうもん)
島田家文書 No.48 目録
首の通行証文。首二つは下野国都賀郡片柳村(現 栃木県栃木市)まで宿継ぎの証文によって運ばれている。証文の発給者は筧(かけい)新兵衛である。
病死家来通行につき証文
(びょうしけらいつうこうにつきしょうもん)
文政4年(1821)
島田家文書 No.202‐11 目録
病死した家臣の通行証文。松前奉行夏目信平の家臣後藤又左衛門は、松前(現 北海道松前町)から江戸に向かう途中で病死した。この証文は、後藤の遺体を江戸まで通すため、夏目の家臣山田文之介が発給したもの。
漂着琉球人通行につき証文
(ひょうちゃくりゅうきゅうじんつうこうにつきしょうもん)
延享2年(1745)
島田家文書 No.202‐21 目録
陸奥国仙台藩領内に漂着した琉球人19人の通行証文。琉球人は老中酒井忠恭(ただずみ)の指示で、仙台藩から江戸に移送された。証文は、仙台藩の家老黒沢要人・後藤孫兵衛・大條監物が発給したもの。
琉球人一行は、延享2年(1745)6月15日に仙台を出立し、26日に中田宿(現 茨城県古河市)に宿泊、翌27日に栗橋関所を通過している(埼玉県立文書館所蔵足立家文書No.3「御関所御用諸記」)。
日光門跡病気にて奥医師通行につき老中証文
(にっこうもんぜきびょうきにておくいしつうこうにつきろうじゅうしょうもん)
寅年(寛政6年、1794)
島田家文書 No.202‐36 目録
日光(輪王寺)門跡の治療のため、幕府の奥医師で『日光駅程見聞雑記』の著者としても知られる多紀元簡(たきもとやす、安長)が、日光に派遣されたときの証文。年号不詳ではあるが、栗橋関所番士足立家の「御関所日記書抜弐」(埼玉県立文書館所蔵足立家文書No.21)にも同記述があることから、寛政6年(1794)の証文と考えられる。証文の発給者は老中の戸田氏教(うじのり)である。
南部美濃守内飛脚足軽通行につき証文
(なんぶみののかみないひきゃくあしがるつうこうにつきしょうもん)
文久4年(1864)
島田家文書 No.37 目録
陸奥国南部藩の大名飛脚の通行証文。飛脚足軽の石澤万蔵・四戸嘉兵衛は南部藩の江戸屋敷へ向かうため、陸奥国盛岡(現 岩手県盛岡市)を文久4年(1864)2月16日に出立している。大名飛脚とは、各藩が国許と江戸藩邸間の連絡用に設けた飛脚のこと。証文の発給者は南部藩士の加嶋加録である。
津軽越中守家来通行につき証文
(つがるえっちゅうのかみけらいつうこうにつきしょうもん)
元治元年(1864)
島田家文書 No.63 目録
陸奥国弘前藩士の通行証文。藩士4人は江戸藩邸から国許の陸奥国津軽(現 青森県)へ向かっている。証文の発給者は弘前藩の江戸留守居役である平井修理(東堂)である。
百姓商用にて通行につき証文
(ひゃくしょうしょうようにてつうこうにつきしょうもん)
元治元年(1864)
島田家文書 No.77 目録
下野国都賀郡部屋村(へやむら、現 栃木県栃木市)の百姓利兵衛が、商用で幸手宿(現 埼玉県幸手市)の大のや嘉兵衛方まで出向くための通行証文。証文の発給者は部屋村の名主周平・組頭忠助・百姓代金右衛門である。
町人商用にて通行につき証文
(ちょうにんしょうようにてつうこうにつきしょうもん)
元治元年(1864)
島田家文書 No.78 目録
陸奥国会津若松一之町(現 福島県会津若松市)の町人善蔵が、商用で江戸小網町(現 東京都中央区)の会津藩産物会所まで出向くための通行証文。証文の発給者は検断(けんだん、町名主)の簗田仙右衛門・倉田作十郎である。
印鑑手形とは、印鑑または判鑑の証文のことである。証文の押印を確認するため、あらかじめ関所には印影(印鑑または判鑑)が届けられていた。栗橋関所では幕府留守居や大名家などの印影を備えており、手形の発給者が代わると印影も替えられた。
中奥御小姓大久保但馬守印鑑手形
(なかおくおこしょうおおくぼたじまのかみいんかんてがた)
島田家文書 No.191 目録
火事場見廻本多弥五郎印鑑手形
(かじばみまわりほんだやごろういんかんてがた)
島田家文書 No.203‐16 目録
白須甲斐守知行所印鑑手形
(しらすかいのかみちぎょうしょいんかんてがた)
島田家文書 No.204‐4 目録
新義真言宗触頭真福寺印鑑手形
(しんぎしんごんしゅうふれがしらしんぷくじいんかんてがた)
島田家文書 No.196 目録
松平陸奥守一門合印鑑手形
(まつだいらむつのかみいちもんあわせいんかんてがた)
島田家文書 No.203‐8 目録