栗橋関所で同役の関所番士足立家にも、島田家文書の「御用留」と同様のものとして、「御関所御用諸記」・「御用留」(埼玉県立文書館所蔵「足立家文書」・埼玉県指定文化財)などの資料がある。また、足立家文書には慶応4年(1868)から明治2年(1869)までの「御関所日記」の原本が現存し、島田家文書と共に栗橋関所の実態を示す貴重な資料となっている。
御用留 一
(ごようどめ いち)
文久元年(1861)
島田家文書 No.19‐2 目録
寛政元年(1789)7月から同9年(1797)11月までに栗橋関所に通達された文書や提出文書に関する記録の控え。文久元年(1861)に10代定勝が作成したもの。
記録には、鉄砲の通行や切り傷のある者の通行、女性の通行に関する改めについて、代官所からの照会と、それに対する栗橋関所側からの返答がみられる。また、寛政元年8月の項には、郡上一揆(ぐじょういっき)で陸奥国盛岡藩の南部家に御預けとなった金森頼錦(よりかね)の遺骨の通行がみられる。美濃国八幡藩主であった金森は、郡上一揆の失政を問われて宝暦8年(1758)に改易となり、同13年(1763)6月に没した。金森の遺骨は、寛政元年に息子金森頼元(よりもと)の家臣安井孫太郎と京都紫野(むらさきの)の金龍院(現 龍源院、りょうげんいん)の証文によって、盛岡から江戸の菩提所まで駕籠で運ばれた。
⇒資料の包紙
御用留 二
(ごようどめ に)
文久2年(1862)
島田家文書 No.19‐3 目録
寛政9年(1797)11月から同12年(1800)11月までに栗橋関所に通達された文書や提出文書に関する記録の控え。10代定勝が過去の「御関所日記」から記録を書き写したもので、「御用留 一」の続き。
記録には、関所番士に対する通行大名からの贈り物や関所の下番に関する代官所からの照会、関所側からの返答のほか、関所番士の格式について「御代官手代之次、書役之上」とした通達がみられる。また、寛政10年(1798)の項には、栗橋関所番士の落合源兵衛・源太夫父子の小仏関所への異動と、それに伴う欠員補充として小仏関所番士の島田市郎兵衛が栗橋関所に異動となった記録がみられる。
御用留 三
(ごようどめ さん)
文久2年(1862)
島田家文書 No.19‐4 目録
寛政12年(1800)11月から享和3年(1803)8月までに栗橋関所に通達された文書や提出文書に関する記録の控え。10代定勝が過去の「御関所日記」から記録を書き写したもので、「御用留 ニ」の続き。
記録には、塩硝・竿鉛・硫黄・銅の4品の通行改めについて、代官所からの照会と関所側からの返答がみられる。また、享和元年(1801)9月の項には、関所破りの罪人が栗橋関所構内で磔(はりつけ)となった一件が記されている。
御用状書抜 五
(ごようじょうかきぬき ご)
文久2年(1862)
島田家文書 No.19‐5 目録
文化4年(1807)6月から同5年(1808)6月までに栗橋関所に通達された文書や提出文書に関する記録の控え。享和3年(1803)9月以降の記録を記した御用留は失われているが、10代定勝が過去の「御関所日記」から記録を書き写したもので、「御用留 三」の続き。
記録には、武器類の蝦夷地への通行に関する通達がみられる。文化4年6月の項では、若年寄堀田正敦(まさあつ)の武器類通行が頻繁に記録されている。日本では、同年4月に択捉島(えとろふとう)にロシア船が来航し、シャナの会所が襲撃される事件があり、幕府は同年6月に堀田を蝦夷防衛総督に任じ、大目付の中川忠英(ただてる)と共に蝦夷地に派遣した。
御用留
(ごようどめ)
文久3年(1863)
島田家文書 No.19‐6 目録
文化13年(1816)9月から文政3年(1820)8月までに栗橋関所に通達された文書や提出文書に関する記録の控え。文化5年(1808)7月以降の記録を記した御用留は失われているが、10代定勝が過去の「御関所日記」から記録を書き写したもので、「御用状書抜 五」の続き。
記録には、鉄砲や女性の改めに関する通達のほか、関所番士家に関する記述がみられる。文政元年(1818)7月の項には、支配代官の中村八太夫に宛てた6代市郎兵衛の養子利吉の死亡届がみられる。
御用留
(ごようどめ)
島田家文書 No.8 目録
嘉永6年(1853)6月から同7年(1854)7月までに栗橋関所番士と支配代官所との間で往復した伺書や届書、それらの返答に関する御用状を中心に記録したもの。
記録には、嘉永6年6月のペリー提督率いるアメリカ合衆国艦隊の浦賀来航による、江戸湾警護のための武器類の通行に関する記述が頻繁にみられる。
御関所御定書
(おせきしょおさだめがき)
島田家文書 No.12 目録
元和2年(1616)から宝暦6年(1756)までに栗橋関所に通達された文書や関所改めの詳細に関する記録の控え。記録は、元和2年8月に幕府年寄衆が関東16か所の渡船場に定めた、いわゆる「定船場法度」から始まる。
御用留書 一番
(ごようどめがき いちばん)
文久3年(1863)
島田家文書 No.6 目録
文久3年(1863)12月から元治元年(1864)6月までに栗橋関所番士と支配代官所との間で往復した伺書や届書、それらの返答に関する御用状を中心に記録したもの。島田家文書No.19‐2からNo.19‐6までの御用留とは異なり、過去の「御関所日記」から記録を書き写したものではなく、文久3年当時の記録を記したもの。
記録には、大名家家臣の通行に関する記述が多くを占める。また、元治元年に挙兵した天狗党の乱に関連し、水戸藩士や幕府役人の緊急の通行に関する記述も頻繁にみられる。
コラム 関所破り磔(はりつけ)になる!
江戸時代、関所破りは重罪とされたが、島田家文書「御用留 三」の享和元年(1801)9月の項には、関所破りの罪人が栗橋関所構内で磔となった一件が記録されている。
芝六軒町(現 東京都港区)店借(たながり)に居候の庄兵衛は、奉公先から大金を盗み出し、女を連れて逃亡した。女は奉公先の乳母で、二人の不義密通が店の主人に知られ、庄兵衛は暇を出されていた。二人は日光道中の今市宿(現 栃木県日光市)まで逃れたが、その途中で栗橋関所を避けるため、関所の手前で川を渡って関所抜けをした。捕らえられた庄兵衛は、江戸北町奉行所で裁かれ、関所破りとして栗橋関所構内で磔にされることになる。
庄兵衛は9月25日に江戸から目籠で護送され、同月27日に磔となった。処刑は巳上刻(午前9時から9時40分)に始まり、中刻(午前9時40分から10時20分)過ぎに終了した。刑場には大勢の見物人が押しかけたため、警備のために人足67人を命じるほどであった。処刑当日は房川渡の渡船は急御用を除いて止められ、6代市郎兵衛も助番として渡船場の警備にあたっている。
御用留 三 |