明治2年正月、全国の関所が廃止される。栗橋関所へは同年2月18日に県役所から関所廃止が通達され、約250年続いた栗橋関所はその役割を終えることになる。
関所廃止後、関所番士の島田耕平(9代)・冨田潤三・足立十太夫・加藤杢兵衛、関所番見習の島田起四郎(一之輔、のちの10代定勝)らは葛飾県に出仕することとなる。
9代耕平は、明治3年(1870)に葛飾県の庶務局史生となり、以降、印旛(いんば)県、埼玉県に勤めた。明治7年(1874)、家督を長男定勝に譲り隠居するが、同年5月に埼玉県第8区の副区長に任命され、明治12年(1879)の区制廃止まで副区長を勤めた。
関所廃止につき役所出仕願
(せきしょはいしにつきやくしょしゅっしねがい)
巳年(明治2年、1869)
島田家文書 No.4‐2 目録
加藤杢兵衛・足立十太夫・冨田潤三・島田耕平の元関所番士らが葛飾県権知事の水筑龍に宛てた願書。明治2年(1869)2月の関所廃止に伴い、島田耕平ら4名は葛飾県への出仕を願い出た。元関所番士らの願いは受理され、同年3月に葛飾県に出仕することとなる。
元房川渡中田御関所番島田耕平外三人身分書上写
(もとぼうせんわたしなかだおせきしょばんしまだこうへいほかさんにんみぶんかきあげうつし)
午年(明治3年、1870)
島田家文書 No.2‐5 目録
島田耕平・冨田潤三・足立十太夫・加藤杢兵衛ら元関所番士4人の身分や扶持高、関所廃止後の処遇について、葛飾県権知事が民部省に提出した伺書などの書類を書き写したもの。
島田耕平史生任命状
(しまだこうへいししょうにんめいじょう)
庚午年(明治3年、1870)
島田家文書 No.3‐5 目録
葛飾県から島田耕平(源勝熈)に対して発給された史生の任命状。耕平は関所廃止後の明治2年(1869)3月に葛飾県に出仕し、同3年(1870)5月に庶務局史生に任じられた。葛飾県は同4年(1871)11月に廃止され、印旛県、埼玉県へと引き継がれた。
島田耕平第八区副区長任命状
(しまだこうへいだいはちくふくくちょうにんめいじょう)
明治7年(1874)
島田家文書 No.3‐4 目録
埼玉県から島田耕平に対して発給された第8区副区長の任命状。耕平は明治12年(1879)の区制廃止まで副区長を勤めた。
皇国武術英名録 五
(こうこくぶじゅつえいめいろく ご)
明治21年(1888)
島田家旧蔵資料 目録
新井朝定によって明治21年(1888)に出版された剣術家の名簿集。10代定勝が掲載されている。
定勝は、天保13年(1842)に関所番士島田耕平の長男として生まれ、安政5年(1858)に関所番見習となった。13歳で神道無念流3代戸賀崎熊太郎に入門し、同門の熟達者である渡辺國(邦)造に剣術を学んだ。また、武衛流砲術を古河藩師範家千賀只右衛門に、馬術、槍、文学を諸家に学ぶなど、文武に励んだとされる。
⇒『皇国武術英名録』一覧
福島区裁判所検事局事務取扱解任通知
(ふくしまくさいばんしょけんじきょくじむとりあつかいかいにんつうち)
明治32年(1899)
島田家文書 No.3‐11 目録
10代定勝の福島地方裁判所管内中村区裁判所検事の解任通知。定勝は、安政5年(1858)に関所番見習となり、明治2年(1869)の関所廃止後は葛飾県に出仕し、明治4年(1871)に刑法局史生となる。以後は各地に赴任し、明治39年(1906)に退職した。
「栗橋関所址碑」建立記念写真
(くりはしせきしょあとひ こんりゅうきねんしゃしん)
大正13年(1924)
久喜市立郷土資料館所蔵資料 目録
栗橋関所址碑建立の記念写真。栗橋関所址碑は、大正13年(1924)9月の利根川橋開通に際して建立された。碑の題字は公爵徳川家達(いえさと、徳川宗家16代)の揮毫(きごう)である。建立の発起人は、旧関所番士家の加藤市郎・足立正雄・島田定持(11代)のほか、池田義郎(旧本陣)、梅澤良三(旧宿名主)である。