『楽托日記』
(らくたくにっき)
安政4年(1857)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2107 目録
撫山は29歳のとき、家業を捨て学業に進むことを決意して、友人らと日光へ旅をしました。そのときの様子を書いた自筆原稿です。
亀田鶯谷筆「演孔堂」扁額
(かめだおうこくひつ えんこうどう へんがく)
安政5年(1858)頃
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3917 目録
撫山は初めての塾を両国に開き、「演孔堂」と名づけました。その時の扁額で、撫山の師鶯谷の書によるものです。
中島慶太郎家族書上
(なかじまけいたろうかぞくかきあげ)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2244・2245 目録
撫山の書いた家族の書上です。住所が南埼玉郡久喜本町122番地であることのほか、氏名・生年月日などが記されています。
中島竦之助宛中島慶太郎書簡
(なかじましょうのすけあてなかじまけいたろうしょかん)
明治42年(1909)9月19日
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2877 目録
撫山が三男竦之助(しょうのすけ)(玉振(ぎょくしん))に宛てた手紙です。このとき、竦之助は北京にいました。
中島端蔵宛中島慶太郎書簡
(なかじまたんぞうあてなかじまけいたろうしょかん)
明治42年(1909)10月26日
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2812 目録
撫山が次男端蔵(斗南(となん))に宛てた手紙です。新居の周辺図を同封しています。このとき、端蔵も北京にいました。
亀田鶯谷筆「幸魂教舎」扁額
(かめだおうこくひつ さきたまきょうしゃ へんがく)
明治6年(1873)頃
久喜市公文書館所蔵 中島甲臣家古文書 目録
撫山が久喜の自宅に開いた塾の名前が「幸魂教舎(さきたまきょうしゃ)」です。「こうこんきょうしゃ」と呼ぶこともあります。「演孔堂(えんこうどう)」の扁額と同じく、師の鶯谷が書いたものです。
教舎規
(きょうしゃき)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2351 目録
明治初期における「幸魂教舎」の規則に関わる資料です。後半部には入舎にあたっての中島慶太郎(撫山)あての教導願いや寄宿願いの書式が収められています。
〔私立言揚学舎教則及び校則〕
(しりつことあげがくしゃきょうそくおよびこうそく)
〔明治20年(1887)〕
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2354 目録
明治20年(1887)11月、撫山の三男竦之助は「私立言揚学舎」の設置願を埼玉県に提出し、認可されています。本資料は、この時認可された言揚学舎の教則及び校則を記したものです。
幸魂教舎(言揚学舎)の入門生名簿
(さきたまきょうしゃ ことあげがくしゃ のにゅうもんせいめいぼ)
総勢460人の生徒名簿です。出身地別にみると平成の合併以前の久喜・加須・幸手・鷲宮・白岡・菖蒲・宮代・騎西・栗橋・杉戸の順に多くなっています。遠くは鹿児島、新潟、長野、静岡等の他県出身の生徒もいました。
〔名簿〕
(めいぼ)
明治6年(1873)~14年(1881)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2109 目録
及門生名氏録
(きゅうもんせいめいしろく)
明治14年(1881)~18年(1885)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2110 目録
入門生氏名籍
(にゅうもんせいしめいせき)
明治17年(1884)~30年(1897)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2108 目録
『演孔堂詩文』
(えんこうどうしぶん)
昭和6年(1931)刊
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3607 (上冊・下冊) 目録
撫山三男の竦之助(しょうのすけ)(玉振(ぎょくしん))が刊行したもので、撫山が作った漢詩文や漢文をまとめたものです。
『性説疏義』
(せいせつそぎ)
昭和10年(1935)刊
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.1330・1331 目録
撫山が75歳のときに制作したもので、亀田鵬斎(ほうさい)が唱えた性説について詳細な注解を行っています。撫山没後に、三男竦之助(しょうのすけ)が手助けをして、長男靖(綽軒(しゃっけん))の子賾臣(もとおみ)が発行しました。
『日文草篆考 全』
(ひふみそうてんこう ぜん)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2101 目録
平田篤胤(あつたね)や師の鶯谷の影響を受け、撫山が日文(ひふみ)と呼ばれる神代(じんだい)文字の草書体と篆書体の起源が同じであることを説き明かしたものです。
『亀田三先生伝実私記 全』
(かめださんせんせいでんじつしき ぜん)
明治24年(1891)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2446 目録
三先生とは、撫山の師家である亀田鵬斎(ほうさい)・綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)の三人のことです。群馬県邑楽郡上五箇村(現・千代田町)の戸長吉永市十郎の依頼を契機にして撫山が執筆したものです。