中島撫山筆七言絶句「望富嶽」
(なかじまぶざんひつ しちごんぜっく ぼうふがく)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3941 目録
撫山が、亀田鵬斎の「望富嶽二首」其ニを草書体で書したものです。雪を頂いた富士山の眺めを臨場感たっぷりに描いています。なお、この詩は『鵬斎先生詩鈔』(文政5年刊)に収められています。
※『善身堂詩鈔』(天保7年刊)にも収録
(書き下し文)
雪嶽寒光(かんこう) 馬鞭(ばべん)に入る
亂山(らんざん)黛(たい)の如くして 腰を遶(めぐ)りて連なる
白蓮は 獨(ひと)り靑天(せいてん)の外に在り
擎(ささ)げ出(いだ)す 玉皇(ぎょっこう)香案(こうあん)の前
鵬先生の詩を録す 中島慶
(口語訳)
雪が積もった冬の富士の景色は、馬の鞭に寒々とした景色が輝くのと同じように美しく、周りの不揃いに聳え立つ低い山々はいまだ青々としているように、富士山の腰のあたりをめぐって連なっている。白い蓮の花を倒したような富士のお山は、青空の中に屹立していて、まるで天帝の香案の前に白蓮を捧げているかのようにみえる。
中島撫山筆七言絶句「江東漫吟」
(なかじまぶざんひつ しちごんぜっく こうとうまんぎん)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3928 目録
撫山が、亀田鶯谷の「江東漫吟三十首」の其七を草書体で書したものです。陶淵明の「桃花源記」を踏まえて作られており、武陵の長官はどうして桃源郷に行き着くことができなかったのだろうかという問いかけが主題となっています。なお、この詩は、『学孔堂遺文』(明治16年刊)に収められています。
※『鶯谷先生詩文鈔』にも収録
(書き下し文)
武陵の太守 何ぞ趦趄(ししょ)たる
洞口路開けて 釣漁(ちょうぎょ)多し
半夜樓樓(ろうろう) 歌罷みて後
松風一たび拂ひて 池魚(ちぎょ)躍(おど)る
鶯先生の江東漫吟の作を録す 中島慶
(口語訳)
武陵の太守はどうして桃源郷に行けなかったのであろうか。私は、桃源郷の入口の洞穴をみつけて、そこをぬけるとたくさんの人が魚を釣りをしているのに出会った。そこでは、夜を重ねて宴会が行われていたが、ふと歌声が止んだのちに、まつかぜが一瞬吹いたかと思ったら、池の中の魚が飛び跳ねて、夢から目が醒めて桃源郷から帰ってきた。
◎この詩は、陶淵明の「桃花源記」を踏まえて作られている。晋の太元年中に、湖南武陵の人がその地の桃林の奥に入ると、洞穴の中に秦の乱を避けた人々が住んでいて、少しも世の変遷を知らなかったという。「桃花源記」に書かれた理想郷から、俗世間から離れた別天地を「桃源郷」と呼ぶようになった。
中島撫山筆七言絶句「山中問答」
(なかじまぶざんひつ しちごんぜっく さんちゅうもんどう)
明治43年(1910)
久喜市立郷土資料館所蔵 目録
撫山が、李白の「山中問答」を隷書体で書したものです。明治42年の秋に久喜新町に転居して初めて迎えた新年の作です。なお、通行本には「栖」は「棲」、「閒」は「閑」、「華」は「花」につくります。
(書き下し文)
余(よ)に問(と)ふ 何の意ぞ碧山(へきざん)に栖(す)むやと
笑ひて答へず 心自(みずか)ら閒(かん)なればなり
桃華(とうか)流水(りゅうすい) 窅然(ようぜん)として去り
別に天地の人間(じんかん)にあらざる有り
明治庚戌春王月 八十二叟 慶書す
(口語訳)
なぜ碧山中に住んでいるのかと問う人がいる。私は笑っているばかりで答えようとしない。ここにいれば心がおのずから静かなのであり、それは話してもわかることではないからである。この山中には桃花を浮べた春の水がゆたかに流れてきて、また遠く去ってゆき、俗世間を離れた別天地なのである。
中島撫山筆七言絶句「戊申新年」
(なかじまぶざんひつ しちごんぜっく ぼしんしんねん)
明治41年(1908)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3939 目録
撫山の自作の詩です。80歳を超えて、なおも健康ではあるが、儒者としての矜持をもちながらも、なんの財産もない貧しさに自嘲している。そうした心境をユーモラスに描いています。なお、この詩は、『演孔堂詩文』(昭和6年刊)に収められています。
(書き下し文)
今年八十 又た春を嬉(たの)しむ
醃鱖(えんけつ)羹豚(こうとん) 鼓腹(こふく)の人
貽厥(いけつ)孫謀(そんぼう) 殊に笑ふべし
蠹編(とへん)傳業(でんぎょう) 寒貧(かんひん)を閥(ほこ)る
新年試筆 撫山老儒慶
(口語訳)
今年で八十歳になるが、今年もまた春を楽しんでいる。正月のご馳走に腹づつみをうちながら、子孫のために何を遺してあげられるのか考えていると、むしょうにおかしくなってくる。むしばんだ書物を家学といって子孫に伝え、まずしさをもほこりとするような私なのだから。
山水図
(さんすいず)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3940
※高精細画像はありません。
詩は亀田鵬斎の「題画」其ニです。画は鵬斎のものをまねて撫山が描いたものです。詩は『鵬斎先生詩鈔』(文政5年刊)に収められています。
『善身堂詩鈔』(天保7年刊)にも収録
(書き下し文)
撫山墨戯
幽居(ゆうきょ)するも 詎(なん)ぞ曾(すなわ)ち俗人有るあらん
還(かえ)って笑ふ 閑中(かんちゅう)は仍(な)ほ事に忙しきを
江風山月を除却(じょきゃく)するの外
重ねて聞く 松籟(しょうらい)崚嶒(りょうそう)を度(わた)るを
鵬先生の詩且つ圖を録す 慶
(口語訳)
世の中を避けて静かな生活を求めたが、どうしてこんなに世間の人たちが尋ねてくるのだろう。そんなことを考えていたら、思わず笑ってしまった。用事のないときというのは、かえって気ぜわしいものなのである。この静かな土地で、川風や山上の月に思いを寄せながら、松風が高みを吹き渡るのをしみじみと聴いていると、これこそが私が望んだ生活なのである。
山水図
(さんすいず)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3931 目録
詩は亀田鵬斎の「題画」其四。画はこの詩意をとって撫山の描いたものです。川の水が高楼の周りを青く染め、数え切れぬほどの鷗が飛び回るさまが色鮮やかに描かれています。なお、方于魯は方建元。明代末期の名墨匠。『鵬斎先生詩鈔』(文政5年刊)では「綠」は「碧」、「輝」は「暉」につくります。
※『善身堂詩鈔』(天保7年刊)にも収録
(書き下し文)
明の方于魯(ほううろ)氏製の墨を用ふ
水は江樓(こうろう)に漲(みなぎ)りて 四圍(しい)綠なり
日は晴(は)れて 烟柳(えんりゅう) 清輝(せいき)を弄(もてあそ)ぶ
陂塘(はとう)十里 東風(とうふう)の浪
無數(むすう)の白鷗(はくおう) 自在に飛ぶ
鵬翁の詩意を圖く 中島慶
(口語訳)
たかどのの側を流れる川には水があふれ、あたりは草木の緑で囲まれている。天気は快晴で、けぶる柳がかえって清い光を楽しませてくれる。長い堤に、春風が波をたて、たくさんのかもめが自由気ままに飛んでいる。
山水図
(さんすいず)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3958 目録
詩は亀田鵬斎の「題画」其一。画は撫山が描いたものです。山へと続く道は今は閉ざされ、白い雲がかかっている。麓の老屋の門前は船着き場で、川一面の楓の紅葉は、夕日に美しく照り映えているという情景が描かれています。なお、『鵬斎先生詩鈔』(文政5年刊)により「船」の字を補いました。
※『善身堂詩鈔』(天保7年刊)にも収録
(書き下し文)
峯腰(ほうよう)路(みち)斷(た)えて 白雲横(よこ)たわり
流水源頭(げんとう) 水に聲(こえ)有り
老屋(ろうおく)の門前 船を繋(つな)ぐの處(ところ)
滿江(まんこう)の楓葉(ふうよう) 夕陽(せきよう)朙(あき)らかなり
鵬先生の詩に慶録し、并(あわ)せて繪(えが)く
(口語訳)
山の頂上まで続く道は、途中でなくなっているかのように白い雲が横たわっている。ただ、いずみの源から、水の流れる音だけは今でも聞こえてくる。人も住んでいないような古い家の門前は、おそらく船着場であったのだろう。今は川一面に映る紅葉したかえでが、山の西斜面を明るく照らしているだけである。
雪江独釣図
(せつこうどくちょうず)
明治41年(1908)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3957 目録
詩は亀田鵬斎の「題雪江独釣図」。画は撫山が描いたものです。原点は唐の柳宗元の「江雪」の詩です。なお、『鵬斎先生詩鈔』(文政5年刊)では「囬」は「廻」、「煙」は「烟」につくります。
※『善身堂詩鈔』(天保7年刊)にも収録
(書き下し文)
曲港(きょくこう)回汀(かいてい) 雪空を搨(うつ)す
水南(すいなん)水北(すいほく) 有無の中
數行(すうこう)の白鷺(はくろ) 飛びて影無く
一笠(いちりゅう)の煙簑(えんさ) 漁翁(ぎょおう)を認む
鵬斎先生の詩を録す 慶
撫山老人戯れに寫す 時に年八十
(口語訳)
曲がりくねった河の流れに、雪空が描かれている。水は南北に貫いているものの、有るのか無いのか、それさえもよくわからない。列をなした白鷺が飛んでいても、影さえみることができない。そんな白一色の世界に、ただ笠と蓑を被って釣りをしている一人ぼっちの老漁師だけがいるのみである。
瀑布図
(ばくふず)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3959 目録
詩は亀田鵬斎の「瀑布」其一。画は撫山が描いたものです。切り立った崖に滝が懸かったのを見て、天帝が銀河の底を掘り起こし、それが降り注いで人界で顔を洗う泉となったという情景が描かれています。なお、この詩は、『鵬斎先生詩鈔』(文政5年刊)に収められています。
※『善身堂詩鈔』(天保7年刊)にも収録
(書き下し文)
撫山
驀(たちま)ち見る 翠屏(すいへい)に瀑布(ばくふ)の懸(か)かるを
水源定めて知る 中天(ちゅうてん)に在るを
天公(てんこう) 手づから銀河の底を抉(えぐ)り
注(そそ)ぎて塵寰(じんかん)洗面(せんめん)の泉と作(な)す
鵬斎先生の詩 慶書す
(口語訳)
突然緑一面の切り岸に、上から白布を垂れたような滝の流れが懸かっている。この水源はまちがいなく中空にあるのだろう。これは、天帝が、ご自分の手で天の川の底をえぐって、そこから銀河の水を注ぎ、このちりの世界をきれいに洗い流すための泉を作ろうとしてできたものなのだから。
華厳山水図
(けごんさんすいず)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3935 目録
撫山が、亀田鵬斎の山水画集『胸中山』(文化13年刊)に倣って描いた山水図です。「銀河訝合一盃無」とある賛も、『胸中山』所載の賛の一部をそのまま用いています。なお、「方氏」とあるのは、方于魯のことです(「山水図」中島元夫家古文書 No.3931参照)。
(書き下し文)
撫山老人戯れに写す 明の方氏製の墨を用ふ
銀河、一盃を合はすや無(いな)やと訝(いぶか)る
中島撫山筆七言古詩「漫吟次韵韓公山石詩」襖
(なかじまぶざんひつしちごんこし まんぎんじいんかんこうさんせきし ふすま)
明治時代
久喜市立郷土資料館所蔵 目録
詩は、韓愈の七言古詩「山石」に鶯谷が次韵(じいん)したものです。『学孔堂遺文』(明治16年刊)に収められています。
※『学孔堂遺文』により「篇」の下に「忘」を補いました。なお、『学孔堂遺文』では「烟」は「煙」、「盃」は「杯」、「饑」は「飢」につくります。
(書き下し文)
柳下(りゅうか)の狂生(きょうせい) 活計(かっけい)微(かすか)なり
手を轉(てん)ずれば 酒錢(しゅせん)烟と飛ぶ
一盃 醉(すい)を買ひて 書樓(しょろう)に臥(ふ)し
夢酣(たけなわ)にして 何ぞ家の肥(こ)ゆるに匪(あら)ざるを識(し)らん
架書(かしょ)陳編(ちんぺん) 人は唾棄(だき)す
旦夕(たんせき)之れを讀みて 鬢毛(びんもう)稀(まれ)なり
空疎の文字も 筆を落(おと)せば成り
一篇を誦(しょう)するごとに 餓饑(がき)を忘る
自ら問ひ 自ら答(こた)へて 樂事(らくじ)足る
佳朋(かほう)豈(あ)に多からんや 長く扉(ひ)を闔(と)ざす
唖然(あぜん)として 獨り倚(よ)る 書樓(しょろう)の角(かど)
柳絮(りゅうじょ)三月 雨雪(うせつ)のごとく霏(と)ぶ
春空(しゅんくう)靄靄(あいあい) 情を成しがたし
心胸(しんきょう)を豁開(かっかい)して 九圍(きゅうい)を呑む
況(いわ)んや復(ま)た薰風(くんぷう)南より至るをや
荐(しきり)に醉面(すいめん)を吹きて 襟衣(きんい)を飄(ひるがえ)す
從前(じゅうぜん)の駻突(かんとつ) 人の御(ぎょ)する無し
百載(ひゃくさい)まさに自ら銜鞿(かんき)を脱すべし
世上(せじょう)誰(たれ)か酒竹を儲(たくわ)ふることの多きや
嘲(あざけ)ることなかれ 斯(こ)の人 歸(き)する所に暗しと
鶯谷先生の漫吟の作 中島慶書す
(口語訳)
柳の下に住む自由気ままな老人の生計はわずかなもので、時間があれば酒代となって消えてしまう。一杯の酔いを買って書斎で横になり、幸福な夢を見ながらどうして家にお金が貯まらないかなどと考えることもない。古い書物が並べられた本棚を普通の人は忌み嫌っているけれども、朝夕この書物を読んでいたらいつの間にか髪の毛は薄くなっていた。中身のない文字も筆をとればできあがり、その一篇を読み流していると空腹さえも忘れてしまう。自問自答していればそれも楽しく、親しい友人は多くないので、長いこと扉を閉ざしている。書斎の柱の隅にもたれ掛かって、声も出さずに一人で問い、一人で笑っていると、いつのまにか三月になって柳のわたが雨や雪のように飛び始める。春の空は盛んで美しく、何とも言えない気持ちになり、心のうちも広がり、世の中さえも飲み込んでしまえるようである。さらにその上初夏の風が南よりやってくると、一層さわやかになり、酔っ払ったほおに度々風が吹き付けて、衣服も舞い上がる。これまでのあら馬が人に制せられることなどなかったように、いつの時代も自分自身で縛られているものから脱するのだ。世の中には酒銭を貯えている人のなんと多いことか、この人の行きつく先が暗いなどとばかにしないように。
中島撫山筆「進学解」屏風
(なかじまぶざんひつ しんがくかい びょうぶ)
明治33年(1900)
久喜市立郷土資料館所蔵 目録
撫山が、韓愈の「進学の解」の冒頭の一節を金文で書したものです。「(業(ぎょう)は) 勤(つと)むるに精(くわ)しく、嬉(たの)しむに荒(すさ)み、(行(おこな)いは) 思(おも)ふに成(な)りて、随(したが)ふに毀(や)ぶる」と読みます。「学業は、努力すれば奥が深くなり、遊んでいるとだめになる。行いは思案をめぐらせばうまくゆき、気ままにやると失敗する。」の意です。「業」「行」の文字が省略されています。
「明治庚子春、書して、以て河野周郎に贈る。撫山老儒慶伯章父。」と署名があり、明治33年に撫山が河野周(ちかし)に贈ったものであることが分かります。中島敦の異母妹澄子氏が折原家に嫁ぐ際に持参されました。
(書き下し文)
勤(つと)むるに精(くわ)しく
嬉(たの)しむに荒(すさ)み
思(おも)ふに成(な)りて
随(したが)ふに毀(やぶ)る
明治庚子春、書して以て河野周郎に贈る
撫山老儒慶伯章父
中島撫山筆「不為言揚」扁額
(なかじまぶざんひつ ことあげせず へんがく)
明治42年(1909)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3910 目録
撫山の筆による扁額です。篆書で「不為言揚」「八十一叟 慶作字」と刻まれています。「言揚(ことあげ)為(せ)ず」と読み、「ことばに出して論ずることを行わない」という意味です。明治42年(1909)、久喜新町の新宅に転居する際の作品と推測されており、言揚しないという直接的な意味と、新町転居に伴って言揚学舎(ことあげがくしゃ)としての機能を終え隠居生活に入るという意味の二つの側面があるのではないかと考えられています。撫山葬儀後に一族で写した写真によって、この扁額が玄関の上部に飾られていたことが確認できます。
中島撫山筆「明倫館」扁額
(なかじまぶざんひつ めいりんかん へんがく)
明治時代
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.3911 目録
撫山の筆による扁額です。「明倫館」「中島慶麻呂」と刻まれています。 明倫館は、撫山の次男端蔵と江面の宮内翁助が、明治26年(1893)、江面村(えづらむら)(現・久喜市江面)の宝光院に開いた私立学校の名称で、久喜市及び周辺地域の青年の人材育成のために中等教育を施すことを目的としました。初代館長は中島端蔵、第二代館長は宮内翁助(おうすけ)、第三代館長は宮内純です。明倫館の経営は困難を極めましたが、この明倫館で学んだ人は、後に地域の政治・経済・教育等、各方面で多大な貢献をしました。昭和10年(1935)3月、その教育的使命を終え廃校となりました。