亀田鵬斎(ほうさい)
名は長興、堂号は善身堂。宝暦2年(1751)生まれ、文政9年(1826)没。折衷(せっちゅう)学派の井上金峨(きんが)に学び、江戸駿河台に私塾「育英堂」を開きましたが、「寛政異学の禁」で弾圧され、46歳で隠退し、以後は一文人に徹し、詩と酒と旅とで生涯を終えました。書と画にも秀れ江戸市民をはじめ各地で人気がありました。文集に『鵬斎先生文鈔』、詩集に『鵬斎詩鈔』『善身堂詩鈔』があり、著作に『善身堂一家言』『大学私衡』、画集に『胸中山』などがあります。
『善身堂詩鈔』
(ぜんしんどうししょう)
天保7年(1836)刊
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.1308・1309 目録
『善身堂一家言』
(ぜんしんどういっかげん)
文政6年(1823)刊
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.1318・1319 目録
亀田綾瀬(りょうらい)
鵬斎(ほうさい)の嗣子(しし)。名は長梓、堂号は学経堂。安永7年(1778)生まれ、嘉永6年(1853)没。18歳の時に浅草蔵前に「学経堂」を開き、のち本材木町に移りました。父鵬斎と共に遷善館に出講しましたが、関宿の久世侯(くぜこう)に招かれて藩黌(はんこう)教倫館の儒官ともなっています。著に『綾瀬先生遺文』及び『学経堂文集』(未刊)などがあります。
『学経堂文集』
(がくけいどうぶんしゅう)
年未詳
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2031・2032・2033・2034 目録
亀田鶯谷(おうこく)
綾瀬(りょうらい)の養嗣子(ようしし)。旧姓鈴木氏。下総国東蕗田村(ひがしふきたむら)(現・茨城県八千代町)の人。名は長保、堂号は学孔堂。文化4年(1807)生まれ、明治14年(1881)没。父綾瀬に続いて関宿藩儒官となると共に信州須坂藩(すざかはん)の江戸藩邸でも経書を講じ、藩主堀直虎の漢学の師としても尊ばれました。著に『論語集注異説』(未刊)、『古事記序解』『五十音図説』『五魂説』などがあり、詩文は『学孔堂遺文』に収められています。
『鶯谷先生詩文鈔』
(おうこくせんせいしぶんしょう)
年未詳
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2038 目録
『学孔堂文集年譜 全』他ニ冊合冊
(がくこうどうぶんしゅうねんぷ ぜん ほかにさつがっさつ)
明治23年(1890)
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.2039 目録
『古事記序解 全』
(こじきじょげ ぜん)
明治9年(1876)刊
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.1643 目録
『侯鯖一臠』
(こうせいいちらん)
天保13年(1842)刊
久喜市公文書館所蔵 中島元夫家古文書 No.1312・1313・1314・1315・1316 目録