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  丑十一月三日
一向後家老之嫡子被 召出、御供又ハ
 御用ニ而致参府候者、
 若殿様江軽キ品差上候様ニ可仕候、
 但、未御擬作不被下もの致参府
 候節ハ、差上物ニ不及旨被
 仰出候事
  附り、右滝川縫殿被 召出、此度
  御供ニ罷越候ニ付、御小性頭迄及
  相続候処、御内意被相伺、本文
  之通被仰出候段、佐瀬千左衛門
  于時御小性頭申聞候事
 
  (改頁)
 
【中表紙】
 ○ヲ
 大儀院様御代
 
 享保十九寅年ヨリ
 
 被 仰出書  【(取り消し線)二】
 
 
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  (改頁)
 
【本文】
 享保十九甲寅年十一月廿一日
一御家督被蒙仰候之段、横山
 又助為御使被遣之、内蔵允江
 御書付を以被 仰下候御意之趣、
 御家中之諸士并小役人まて
 麻上下着用、二之御丸御書院江
 召集之、左之通内蔵允申渡之、
 畢而書付何茂為致拝見候
  去ル五日、酒井讃岐守様於御宅、
  御老中方御列座、御遺領無
  相違雁之間詰席被 仰付旨、
  讃岐守様被仰渡、難有思召候、
  何茂可致安喜候、扨又、
  大儀院様御在世之節者勿論、
  御中陰中も相慎勤仕之段、
 
 
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 達 御聴御怡悦思召候、
 御代々被 仰付置候趣弥相守、
 諸事作法能念入可相勤之旨
 御意候、依之、横山又助為御使
 被遣候間、右之趣可申聞旨被
 仰下候、
右之通申渡之、右席江又助
指出候事
 
享保十九甲寅年十二月十一日
一八太三左衛門帰郷之節被仰下候、
 御家中之面々江被仰出候趣、今日
 申渡、左之通、
  御家法之儀、 御代々被仰付置
  候之旨分明ニ候間、弥家中
 
  (改頁)
 
  大小之諸士末々迄茂堅相守
  候、近代御不弁ニ付而、御政事等
  不被任思召候義も有之候、
  大儀院様御相続以後、彼是
  被尽 御思慮、是以其筋漸
  相備候、依之、年若共茂右被成
  置候旨趣不致亡失候様ニとの
  申合、書付并口上之書付茂
  有之候、致披見置可然候、我等覚
  悟ニ茂、大儀院様御志を継、
  古来之御家風致全備度候
  存念ニ候、何茂一同此旨を存、可致
  忠勤者也、
右之通為読聞、左之書付帳面、
何も末々迄為見候、
 
 
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御年寄共申合之書付
一御意被成置候通、御家大切之
 御事勿論ニ候上ハ、各及申合、
 正甫様江心力を尽、可致忠勤事、
一御家中之諸士ハ不(及脱カ)申、末々之者
 迠も聊親疎之無指別、真実之
 志を厚睦敷取扱肝要之事、
一御政事不依軽重、一人之思慮を以
 不致決断、各私意毛頭無之様心掛、
 心底無覆蔵申談、任衆議判
 分明ニ可致裁断候事、
一御役人撰之儀者、先御目付方其
 外其筋/\ニ而、再応吟味有之、
 其元平生之様子承届候上ニ而、
 猶又、列座評議有之而以後
 
  (改頁)
 
 可相伺候、(人才之撰疎薄ニ在之、御
 役義其職分ニ不相当候ハヽ、事不
 相備)、上下位を不得、
 御威光軽ク諸事正路を失
 可申候、惣而紛敷事有之を、
 其時之勢を以致用捨、先其通ト
 成行候之儀、向後極而有之間敷事、
一御勝手向、何とそ先達而被
 仰含置候旨趣、列座初諸向之
 御役人不取失様ニ急度相守、精
 味致候ハヽ、不経数年御借り米不残
 御返被成、御家法古来之通相備
 候儀、可為必定事
右者、列座之面々淀・江戸共ニ平日
 
 
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可心掛儀ニ候条、一同致議定置候、若
正理取失了簡違有之時者、相
達被申断、其非を可相改者也
          八太内蔵允 判
  享保十九年寅九月廿八日
           田辺左仲 判
         滝川新右衛門 判
         八太三左衛門 判
         松原五左衛門 判
 
 御年寄共一同口上書
 御年寄共申合候、心底別紙之通
 
  (改頁)
 
 御座候、 上之御年齢、只今彼是
 御思慮御定り兼被成候御時分ニ候
 故、別而 御家之儀御大切ニ候、先達而
 大儀院様御意被成候通御座候、
 全躰之根本者、上御壱人ニ有之
 儀ニ而、御年寄共ハ右之所之輔佐
 重キ事故、若是覚悟之所
 申合、書付置申候、然上ハ、上之
 御謹厳重ニ不被成御座候而ハ上下共
 理を失ひ、御家危ク罷成候、第一
 酒色之両様至而御戒謹不及
 申上ニ候、此両様ゟハ、天下国家をも
 失候儀、古今不珍候、次には下ゟ
 申上候品御用不被成候而ハ不相調候、
 御一分之御取廻、平日御身持御放埒ニ