氾濫低地は、多摩川の河道に沿う一ノ宮から関戸三丁目にかけて、幅五〇〇~八〇〇メートルを有して広がる(図1―3)。氾濫低地の標高は、一ノ宮付近で五五メートル、関戸三丁目付近で四八メートルを示し、河床からおよそ五メートル高い。また、多摩川の河道とは、高さ約五メートルの堤防で仕切られている。このため、氾濫低地に洪水の及ぶ危険は少ない。しかしこの氾濫低地は、文字通りかつての多摩川の氾濫によってつくられた地形である。その証拠として、人工堤防が造られる以前の大正十年(一九二一)当時、多摩川は最大一キロメートルの幅をもつ広い河原を自由に流れていた(図1―7)。当時の流路の幅は、現在の流路の幅に比べて狭いが、流路は所々で分岐、合流し、網の目のような網状のパターンを示していた。このような網状のパターンは、現在の河道内(堤外地)でも確認することができる。そしてこの網状の流路の間には、高さ二メートル以下のおもに砂礫からなる州が形成されている。この州が、さらに変化した地形が、氾濫低地の表面に自然堤防となっている。自然堤防の最も大きいものは、一ノ宮にみられ、低地面との比高五〇センチメートルを有している。
図1―7 地形図に見る多摩川の流路変遷
図1―3の枠Bの範囲。a~eの1:25,000地形図をもとに作成。
a;大正10年測図、大正14年2月発行『豊田』 b;昭和29年修正測量、昭和32年3月発行『武蔵府中』 c;昭和43年修正測量、昭和44年1月発行『武蔵府中』 d;昭和58年修正測量、昭和60年1月発行『武蔵府中』 e;昭和63年修正測量、平成元年9月発行『武蔵府中』
いっぽう谷底平野は、大栗川・乞田川の河道沿いや、これらの河道から丘陵地の内部へ向かう侵食谷谷底に、枝を広げたように発達している(図1―3)。この谷底平野を流れる大栗川や乞田川の流路は、かつて多くの屈曲点を有する蛇行流路をなし、丘陵内の谷底平野には谷戸田(やとだ)と呼ばれる水田が数多く展開していた。蛇行流路の名残は、和田に位置する並木公園の裏手で観察することができる。しかし、このような蛇行流路のほとんどは、河川改修によって直線的な流路形態に変えられた。また、谷戸田であったところでは、地形改変に伴う侵食谷谷底の盛り土、水路の暗きょ化などが行われ、本来の地形的特徴はほとんど失われてしまった。とくに、集中的に地形改変が進められた乞田川右岸には、かつて長さ二キロメートル前後の細長い谷底平野が八~九本形成されていたが、上流部のほとんどは多摩ニュータウン建設に伴って消滅した。わずかに湿性の谷底平野の特徴を残しているのは、市庁舎の北に位置する奥行き二五〇メートルの谷底平野、連光寺小学校(連光寺三丁目)北の奥行き二〇〇メートルの谷底平野などであり、ともに土地利用は水田となっている。