人工地形

17 ~ 19
市域は都心に近く、広大な未開発地が残されていたことから、昭和三十年代から宅地開発が進められた。初期の開発は、おもに戸建住宅の建設を目的とした小規模開発であった。しかし、昭和四十年代には、多摩丘陵北西部のおよそ三〇〇〇ヘクタールを開発対象とした大規模な宅地開発、すなわち多摩ニュータウンの建設が始まった。ニュータウン建設は、現在でも稲城市、八王子市、町田市など周辺の市で続けられているが、市域における都市基盤整備や住宅建設はほとんど完了した(口絵)。このため、はじめて市域を訪れる者には、かつてここに緑豊かな丘陵地が広がっていたことは想像できないであろう。
 市域で進められたニュータウン開発は、丘陵地の特徴を利用して行われたが、最終的には土地の利用効率が優先された。この結果、市南部のニュータウン区域では、丘陵地というより人工の台地と呼ぶ方が適切な、人工地形が展開することになった。地形の改変過程を示した図1―8A、Bをみると、かつての丘頂・丘腹斜面が破壊され、標高一〇〇~一二〇メートルの面が広がる平たんな地形に変ぼうしたことがわかる。とくに諏訪(五住区)、永山(六住区)、貝取(七住区)の住宅団地は、ほとんどこの高度帯に建設された。落合や鶴牧(九~一一住区)では、標高一二〇~一四〇メートルの高度帯が広がっている。いっぽう、豊ケ丘(八住区)では、南部の三分の一が標高一二〇~一四〇メートルを示すが、北部では一〇〇~一二〇メートルの高度帯が広がる。このように、町田市との境をなす丘頂斜面を除けば、ほとんどの丘頂・丘腹斜面は改変後には認められなくなってしまった。くわえて、丘腹斜面に発達していた小谷は消え、分水界まで細長く伸びた谷底平野が短くなったことも明らかである。貝取から南に伸びる谷底平野や、青木葉で一本杉と平久保(びりくぼ)方向に分岐していた谷底平野がこの好例である。改変前に永山から南に発達し、瓜生の北で南東に分岐していた谷底平野や、楢原(ならはら)から分水界に向かって南へ伸びていた谷底平野では、上流部分が消えたこともわかる。これらの谷底平野にあたる部分では、土地区画整理事業が施行されるとともに、住区を分ける幹線道路が造られた。

図1―8 多摩ニュータウン開発による改変前後の地形

図1―3の枠Cの範囲。等高線間隔は20m。
(A)改変前;昭和29年修正測量、昭和32年3月発行の1:25,000地形図『武蔵府中』から作成。ただし、市境・軌道および駅舎の位置は、昭和63年修正測量、平成元年9月発行の地形図をもとに作成。(B)改変後;昭和63年修正測量、平成元年9月発行の地形図から作成。破線は住区の境界、( )内の数字は住区の番号。網は土地区画整理事業区域(a;小野路第一地区、b;小野路第二地区、c;小野路第三地区、d;多摩地区)。横線の範囲は、新住宅市街地開発事業未認可(未承認)区域(昭和62年時点)。その他は、新住宅市街地開発事業認可(承認)区域。
 丘頂・丘腹斜面と谷底平野に施工されたこのような開発は、極めて密接に関連している。すなわち、丘頂・丘腹斜面から削り取った土砂は、谷底平野に運ばれそこに盛られたのである。このような切り土(切土地)、盛り土(盛土地)の分布を開発前後の地形図の地盤高(標高)の変化をもとに調べると、これらは百草団地や桜ケ丘の住宅地など、ニュータウン区域以外でも行われているのが明らかである(図1―3)。ニュータウン区域では、改変はまんべんなく行われており、ほぼ南北方向に細長く連続している。切土地は、改変前には丘頂斜面や丘腹斜面の上部にあたっていたところで、おおむね南北に帯状に連なる。近年、ニュータウンセンターとして整備されてきている多摩センター駅の南では、まとまって切り土が行われた。いっぽう、落合と鶴牧の境界付近では、ニュータウン区域の中でもとくに広い面積にわたって、盛り土の行われたことが明らかである。このような大規模な地形改変によって、丘陵地を構成する上総層群の連光寺層から関東ローム層(関東地方に広く分布する第四紀の風化した火山砕屑物からなる地層の通称)にいたる、大量の土砂が移動した。