多摩丘陵を構成する上総層群は、今からおよそ一〇〇万年前の前期更新世に、関東平野の大半を含む広い海湾に堆積した海成層である。当時の海盆の中心は房総半島にあり、東方に向かって広大な海が広がっていた。このため、多摩丘陵にみられる上総層群は、房総半島に堆積している上総層群の中位を占める層準に対比される。これは、多摩丘陵が当時の上総層群の堆積盆地からみて、縁の部分に相当していたためである。堆積物のおもな供給源であった関東山地近傍の海域では、河川の影響を受けて半鹹半淡(はんかんはんたん)の水域が広がっていた時代もあったと推測される。いっぽう、当時の陸地から離れた場所にあたる丘陵の東部では、海盆の縁辺部とはいえ相対的に深い海であったらしい。
上総層群の堆積物は、西から東に向かって河口付近、三角州の頂置部、前置部、底置部、および大陸棚などに堆積した地層に区分することができる(菊地一九八四)。市域で観察される連光寺層や稲城層は、河口から三角州頂置部に相当する浅海域に堆積した地層である。河口付近に堆積したと考えられるのは、礫・泥・砂の互層からなる連光寺層である。市域における連光寺層の礫質部は、厚さ二~六メートルで三~七〇ミリメートルの亜円礫からなり、その下底部では下位層の侵食の痕跡も認められている。また、泥質部は二~五メートルで砂層を挟むこともあるが、落合では泥質部からマガキやシジミの化石が採集されたことがある。これらの点は、連光寺層が河川により運ばれた地層で、河川水の混じる浅海に堆積した地層であることを裏付けている。いっぽう、連光寺層の一部や稲城層では、黄灰色ないし褐灰色の砂層がみられる。この地層は化石をほとんど含まないが、やや泥質の部分ではサンドパイプなど底棲動物の巣穴化石を含む場合がある。このような特徴は、これらの地層が三角州の頂置部に堆積したことを推測させている。市域のさらに東方に分布する出店層、飯室層、高津層など(表1―1)の地層は、その特徴から三角州の前置部、底置部、さらに陸棚など、より深い海底に堆積したものである。
なお、連光寺層の泥質部からは、メタセコイア・オオバタグルミ・シナサワグルミなどの植物化石が報告(関東第四紀研究会一九七〇)されているが、花粉の分析結果(宮下一九八六)によると、ツガ属(マツ科)群集で特徴づけられる連光寺層中部が冷涼な気候、スギ科群集およびカシ亜属(ナラ属ブナ科)群集で特徴づけられる連光寺層上部および稲城層中部が、温暖な気候であったと推定されている。
図1―18 生きた化石・メタセコイアの並木(鶴牧)