丘陵地形成の時代

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上総層群の堆積した海底の一部は、今からおよそ五〇万年前ころからの隆起運動によって陸化していった。このため、上総層群堆積当時に浅海域であった市域では、早くに陸化が達成されたと考えられる。陸化をもたらした隆起運動は、丹沢山地から三浦半島を経て房総半島嶺岡地方に延びる一大半島を形成した。その結果、房総北部から関東平野中央部にかけて存在していた当時の海域は、大きな湾として封じ込まれることになった(図1―19)。この湾は、鹿島灘や九十九里浜に湾口を有する広大なもので古東京湾と呼ばれている。古東京湾は、五〇万年前ころ出現し一〇万年前ころに消滅したと考えられるが、この間には海進(佐江戸期・約四〇万年前、オシ沼期・約三〇万年前、鶴見期・約二四万年前、下末吉期・約一三万年前の海進(高野一九八七))や海退によって水域の拡大と縮小が繰り返し起こっていた。丘陵東部にみられるオシ沼砂礫層や下末吉層は、このような海進時に海浜の堆積物や波食台の堆積物であったものと考えられる。

図1―19 古東京湾形成以後の海岸線の変遷
1;約13万年前 2;約8万年前 3;約6万年前 4;約3万年前 5;約1.8万年前 6;約6千年前
貝塚爽平・成瀬洋「古地理の変遷」(日本第四紀学会編『日本の第四紀研究』1977所収)をもとに作成。

 およそ五〇万年前の陸化当時、市域では古相模川が氾濫して扇状地を形成し、砂や礫を堆積させていた。この時の堆積物が、御殿峠礫層である。御殿峠礫層は、連光寺層や稲城層の一部を侵食して南西から北東に向かって分布しているが、この方向が古相模川の流下方向と考えられる。御殿峠礫層の堆積後、古相模川は流路を相模平野の方向へ変えたらしく、御殿峠礫層は風化にさらされることになる。このころから、市域では箱根火山の噴出物と考えられる多摩ローム層の堆積が生じた。多摩ローム層下部のHBPのFT年代がおよそ四六万年前であることから、多摩ローム層の被覆は四六万年前にさかのぼると考えられる。この多摩ローム層全体の厚さは、約四〇メートルと見積もられているが、扇状地上に降下してきたおびただしい火山噴出物を乗せながら、市域には谷が刻まれ、しだいに丘陵地らしくなっていったと推測される。