関東平野全体は、東に低くなってはいるが、周辺部の方が高く、中心部が低い盆地のような形状を示す(三梨一九八〇)。周辺部の高い地域が関東山地や八溝山地で、これらの山地から中心部に向かって、多くの丘陵あるいは台地が中心部の沖積低地を取り巻いている。
関東平野の基盤は、古生代末から中生代にかけて造られた山地が、中生代から新生代古第三紀にかけて北に回転したこと、および南方の伊豆半島などが衝突してつくられたと考えられている(鈴木一九八〇)。こうして関東平野の骨格が形成された後、第三紀後半に関東平野の大部分は海水の侵入を受け、中新世中~後期に三浦層群(三梨一九八〇)が、鮮新世~更新世中期にかけて上総層群(菊地一九八四)が堆積した。多摩丘陵北西部では、大矢部層(角礫泥岩層を含む、凝灰質砂岩、多摩丘陵北縁部での層厚一〇〇メートル以上)、平山層(砂層、約五〇メートル)、連光寺層(礫砂泥の互層、約一一〇メートル)、稲城層(砂層、約一九〇メートル)出店層(砂層・砂礫層、約一二五メートル)、生田層(砂がち互層、約四五メートル)、飯室層(塊状砂質泥岩層、約四五メートル)、高津層(泥がち砂・泥互層、約五〇メートル)からなる。上総層群の一部は、多摩丘陵の谷頭部、道路の切通し、宅地造成地などに顔を出すこともあり、貝の化石などが認められる。一方、関東山地、丹沢山地周辺では、扇状地性の河成堆積物によって種々の丘陵が形成された。また、この時期は、北関東では、日光、那須、赤城などの火山が、南関東では、箱根、富士火山が活発となり、多量の火山灰を噴出し、関東平野全体に火山灰を堆積させた。
更新世中期から後期(約四〇万~一〇万年前)になると氷期が終わり、海が内陸に深く侵入して、古東京湾をつくり出した。古東京湾の時代に、多摩丘陵では、相模層群(三梨ら一九八〇)が堆積し、約二〇万年前の下末吉海進を最後に干陸していき、東京湾のほぼ全域にわたって平坦な常総粘土層を堆積した(菊地一九八〇)。
多摩丘陵の基盤が形成された後、約五〇万年くらい前に、古相模川は大量の礫~粘土を七国峠から府中方向へ繰り返して運搬し、御殿峠礫層をつくり上げた。御殿峠礫層は、下部、中部、上部に三分される。礫は、砂岩、頁岩、安山岩、玄武岩、花崗閃緑岩、緑色凝灰岩などからなり、頁岩、玄武岩以外は風化が著しく、「クサリ礫」となって、スコップでも容易に削ることができる(東京都埋蔵文化財センター一九八五・岡一九九〇)。