多摩丘陵の谷部は谷戸とよばれ、湧水に恵まれて、古くから水田に利用されてきた。このような水田は沢田として知られ、稲作が、こうした地形の大きな土木工事を必要とせず、浅層地下水が容易に利用できる地域からはじまったと考えられている。谷津田面積の四~五倍の集水域が稲作を可能にするといわれている。
多摩市連光寺(図1―21TM1)に谷津田の調査代表地点を設定した。標高は八〇メートルである。丘陵の谷頭部は、Tamura(一九八一)によって詳細な微地形区分がなされている。谷底面は上総層群(シルト質)からなり、この上総層群が難透水層を形成しているために、表面水や浅層水は地下浸透しにくく、水位は高く保たれている。現在は、休耕田となっている。土壌断面がAg/B1G/B2Gからなるグライ土壌である(図1―23)。最表層〇~一六センチメートルはグライ斑が認められ、一六センチメートル以深は明瞭なグライ層である。土壌中の全一次鉱物粒子のうち長石類と石英が七五~七八パーセントを占め、石英は高温型が多い。長石類は丸みを帯び、研磨されていた。重鉱物としては、普通輝石、角閃石、黒雲母、磁鉄鉱が一〇パーセント前後認められた。黒雲母は全層でみられた。風化粒子の割合は九~一五パーセントで、不透明鉱物、変質鉱物が含まれていた。本土壌は、周辺の黒ボク土壌や多摩川沖積土壌とは明らかに異なる鉱物組成を示し、明瞭に区別することができる。
土壌pH(H2O)は四・八~五・一、pH(KCl)は三・七~四・四で酸性を示した(表1―3)。これらのpH値は、多摩川沖積地の水田よりもかなり低い値であった。本土壌の大部分は上総層群を母材としているが、周囲から流れ込んできた黒ボク土壌を含んでいる。電気伝導度(EC)については三三~九六μ Scm-1で、他の土壌との差はみられなかった。全炭素含量は三・一~三〇gkg-1、全窒素含量は〇・三~二・二gkg-1で、有機物含量は必ずしも高くはないが、一定の水稲生産が可能であったのは、水管理が容易で、潅漑水からの養分供給が保証されたためであったと推定される。多摩川、大栗川、乞田川沖積地および谷津の水田を合わせた多摩町における昭和四十年前後の水稲生産は三tha-1(農林省統計調査部一九六五)程度で、谷津田の生産力は三tha-1をやや下回っていたとみられる。この収量を関東地方の「こめどころ」である栃木県におけるヘクタール当たりの収量(九州農業研究会一九七〇)と比較すれば、栃木県の一八九三~一九〇七年当時の収量に匹敵する。多摩丘陵の谷頭部に発達した谷津田の生産力は高くはないが、潅漑水が容易に得られるために、最近まで水稲栽培が継続されてきた。こうして、平安時代以降には谷戸に集落が定着することになった。陽イオン交換容量は一二~二三cmol(+)kg-1で、中程度である。交換性カルシウムは四~一〇、交換性マグネシウムは三~四、交換性カリウムは〇・一~〇・二、交換性ナトリウム〇・二~〇・四cmol(+)kg-1であり、塩基飽和度は三三~六四パーセントであった。この塩基飽和度度は、周囲の黒ボク土壌に比べて高く、母材の塩基含量に加えて、潅漑水によって塩基が供給されたとみられる。有効態リン酸は、最近まで水田に利用されてきた土壌としては一・五mgPkg-1で、やや小さい値であった。リン酸吸収係数は六〇〇~一一二〇mgP2O5(100g)-1で、リン酸の吸着力は小さく、施用したリン酸は水稲に有効に利用される。