姿を消した鳥では、江戸時代に鶴類がいたことは確実で、落合山王下地区から由木(現八王子市)に通じる「三本松」地区の伝承の一つに、「鍋鶴」と「鍋弦(なべつる)」とを掛け言葉にした「三本松の鶴の話」が残っている。「鶴牧(つるまき)」や「鶴ケ峯(つるがみね)」などの小字名とあいまって、かつて、この地域に鶴類(主にナベヅル)が飛来していたことを示唆している。昭和二十四年(一九四九)十月に、立川の上空を南へ飛び去ったナベヅルの群(津戸英守による)、ならびに、昭和四十九年(一九七四)十一月に、高尾山の上空を飛び過ぎて行った二羽のナベヅル(清水徹男による)の目撃例は、伝承の中の鶴は決して架空の伝説ではなかったことを裏付ける好資料である。昭和三十年代の初夏から盛夏の頃、連光寺一帯の森林・草地・水田などで声を聞いた印象的な野鳥は、ミゾゴイ・ヒクイナ・タマシギ・ヨタカ・サンショウクイなどであった(図3―7、3―8)。茶褐色のミゾゴイは、暗い森林に棲(す)む夜行性のサギで、連光寺の多摩試験地の森で、夜間や早暁にイボーッ、イボーッと唸(うな)るような大声で鳴いた。盛鳴期には、まだ明るい夕暮からアカマツの枝にとまって鳴いていた(昭和三十七年五月六日)。また、連光寺船ケ台で、衰弱死寸前のミゾゴイの幼鳥が捕獲されたこともあった(昭和三十七年十月四日)。ヒクイナの声は、文学では「戸をたたく音」と形容され、夏の水辺の風物詩であった。金属的な艶のある声で、キョン、キョン、キョンと一声ずつ区切って鳴き始め、やがてキョンキョンキョンキョキョキョキョキョと速いテンポで終わると、また、始めに戻って鳴き続ける。かつて、連光寺の多摩試験地内のアシ原や付近の水田でも鳴声が聞かれ、水田の畔で見つけた巣の中には、七卵が入っていた(昭和三十七年六月十四日)。タマシギは、雄・雌の役目が逆で、産卵以外は、抱卵も育雛も、地味な羽色の雄が担当している。雌は、喉から胸が派手な赤褐色で、高い声で鳴きながら、雄を求めて渡り歩く一妻多夫性である。夏の夕暮に、連光寺の水田でコーッ、コーッと高音で鳴きたてる姿を見ることができた(昭和三十七年五月十七日)。枯葉色のヨタカは、宮沢賢治の作品にも登場する夜行性の鳥で、夜間飛び回って大きな口で昆虫類を捕食する。夏の日暮れ時から、キョキョキョキョキョキョと単調な声で鳴き始めるが、深夜には中断してほとんど鳴かず、早暁から再び鳴き続ける。日中には太い横枝などの上に、体を平行に乗せるようにして休んでいるが、昼間視力がゼロになる訳ではなく、多摩試験地のフェンスの上にとまって休んでいた白昼のヨタカは、人の接近に気付くと、軽快に飛び去って行った(昭和六十年十一月十四日)。サンショウクイは、体形・羽色とも一見ハクセキレイに似ているが、全くの樹上棲である。往時は、武蔵野に初夏を告げる風物詩的な小鳥で、ヒリヒリン、ヒリヒリヒリ、ピーリーリーなどと爽やかに鳴き連れて、高いケヤキやクヌギの梢から梢へ鳴き渡っていたもので、多摩試験地構内の電線にも数羽の群がとまっていた(昭和三十六年八月三十日)。連光寺一帯で観察できた前記の野鳥たちは、それから約二〇年経過後の昭和五十七年(一九八二)には、ほとんど幻の鳥になっていた。
図3―7 ミゾゴイ
かつては定期的な夏鳥であったが、現在では幻の鳥。写真は連光寺産の若鳥(昭和37年10月)
図3―8 ヒクイナの巣
鳴声は夏の水辺の風物詩であったが、現在では幻の鳥。写真は連光寺の水田にあった巣(昭和37年6月)