進出してきた鳥

207 ~ 211
以上とは対照的に、新たに進出してきた鳥は、ヒメアマツバメ・ヤマセミ・アオゲラ・コゲラ・コシアカツバメ・イワツバメ・ハクセキレイ・ヒヨドリなどである。ヒメアマツバメは、外観がツバメ類に似ていても、脚の構造などが違っていて、全く別のグループに分類されている。元来南方系の鳥で、日本では昭和四十二年(一九六七)に、静岡で初めて繁殖が確認された。多摩市域では、昭和五十七年(一九八二)に、多摩センター駅南側の歩道橋下で初めて営巣例が発見された(成田光彰による)。イワツバメの巣を利用して繁殖し、その出入り口に少量の羽毛を付着するのがヒメアマツバメの特徴で、数年続けて利用するうちに、大量の羽毛で自作の巣を造り上げる。現在では、多摩地方に定着して、冬でも多摩川などの上空を飛翔している。コシアカツバメは、その名のとおり、赤褐色の腰が特徴的である。分布は局地的で、おもに関西地方など西日本で繁殖していたが、現在では日本東部にも進出している。多摩地方では、昭和三十六年(一九六一)十月に、筆者が連光寺丘陵で一羽を見たのが最初の記録で、その後、諏訪団地と永山団地で、昭和四十八年(一九七三)に繁殖が確認された。「とっくりつばめ」という俗称のとおり、巣の形は徳利状で、出入り口の部分が狭くて細長く、奥の方が広くなっている。住宅団地の最上階の踊り場の天井に巣を造るのが通例で、通路が糞で汚されるという理由から、巣が取り壊されてしまう場合が多い。イワツバメは腰が白くて、尾羽の切れ込みが浅い小形のツバメで、早い年には二月中旬~下旬に姿を見せる。元来、山地や海岸の崖に営巣していたので、旧南多摩郡や北多摩郡には分布していなかった。農林省は、昭和三年(一九二八)から、イワツバメの移殖試験を開始し、長野県下から移したイワツバメの雛を、連光寺の鳥獣実験場(現在の多摩試験地)で育てて放鳥した結果、まず、八王子(昭和九年)で営巣を開始し、ここに多摩地方に新たなイワツバメの繁殖分布が拡大することとなった。多摩市では、昭和四十年に、聖蹟桜ケ丘駅で繁殖を始めたのが最初で、その後昭和五十年には、永山駅でも繁殖が始まった。連光寺の実験場で放鳥されてから約三五年ぶりに、巣立った故郷の地にイワツバメの子孫が帰還した訳で、多摩市は、東京におけるイワツバメの繁殖分布拡張の原点であった。郵便切手の図柄にも採用されているヤマセミは、東京都下では奥多摩地方の渓流沿いに生息しているが、珍しくも、多摩市域の大栗川・多摩川合流付近でも見られるので、ここは都心に最も近いヤマセミの名所になっている。大栗川でのヤマセミ繁殖の第一発見者・葛精一は、昭和二十五年(一九五〇)頃には、毎年二羽の雛が巣立っていたことを記述している。その後、大栗川の右岸の崖下をトラックが往来して、永らく繁殖が中断していたが、昭和六十二年(一九八七)に復活し、今では多摩市の名鳥的存在として定着している。アオゲラとコゲラは、山林褄のキツツキの仲間で、昭和三十五年(一九六〇)頃には、連光寺の丘陵では一度も観察できなかったが、それから約二十年後には、すでに留鳥として定着していた。現在では、連光寺の多摩試験地構内の森林にも、この二種のキツツキが生息し、アオゲラなどは標本館の板壁に穴を穿ったり、事務棟の二階の換気窓から出入りしたりしている。多摩丘陵へのキツツキ類の進出要因は明らかではないが、薪炭用に利用されなくなった雑木林が成長して、キツツキ類の生息環境に適する条件が整ってきたことも一因であろう。かつて、ハクセキレイとヒヨドリは、秋の十月頃に、冬の先触れのように姿を現わす冬鳥であった。ハクセキレイは、市域の多摩川では、昭和五十一年(一九七六)六月の観察例が、繁殖期における最初の記録らしい。現在では、多摩市域の水辺で周年見られる留鳥となっていて、今回大栗川で、親鳥から給餌される幼鳥二羽を目撃した(平成七年七月九日)。以前には、ヒヨドリの個体群の多くは、秋に北国や山地から多摩丘陵へ移動して来る冬鳥であったが、稀には繁殖することがあったようで、多摩試験地の標本の中に、昭和十七年(一九四二)五月二十六日に、連光寺地区で採取された一巣(二卵入り)が保管されていた。市域の丘陵地帯で、昭和三十七年(一九六二)六月と、昭和四十六年(一九七一)五月~七月に、それぞれ夏季にヒヨドリが記録されているので、昭和四十年前後からほぼ一年中見られる鳥として定着してきたようである。コジュケイは、今では日本古来の鳥のように定着しているが、元を正せば、原産地は中国で、大正年間に東京と神奈川で放鳥されたものが、日本の風土に適応して分布を拡大したもので、連光寺付近に進出してきたのは昭和三年頃(一九二八)である(石井時彦による)。定着はしないが、一時的に姿を見せるようになった種類には、アオバト・ジュウイチ・ブッポウソウ・コルリ・マミジロ・ヤブサメ・ノジコなどがあり、これらは昭和五十年代後半から記録されている。昭和三十年代には、一度も連光寺地区で記録できなかったこれらの種類が、新たに記録されるようになった要因は、ゴルフ場や住宅団地の造成などの広域的開発によって、局所的に保残された森林緑地に野鳥が依存せざるをえなくなった、云わば、集中効果現象であろう。

図3―9 ヒメアマツバメの巣
おもにイワツバメの巣を利用して羽毛で外装する


図3―10 ツバメの巣 巣の形状はおわん型


図3―11 コシアカツバメの巣 巣の形状はとっくり型


図3―12 イワツバメの巣 巣は集合型

 一方、多摩川では、以前には見ることができなかったカワウ・カモ類・ユリカモメなどが、今では四季それぞれの常連鳥として水辺の点景になっている。昭和三十年代の多摩村域の多摩川で記録できたカモ類といえば、少数のカルガモだけで、しかも人影を見ると遠くから飛び立ってしまうのが常であった。現在は、カモの種類・数ともに増え、しかも比較的近距離から観察できるようになったのは、愛鳥思想の普及と、昭和四十四年(一九六九)十月以降の銃猟禁止措置の効果によるものであろう。カワウが多摩川中流域に現われ始めた時期は、昭和六十年頃で、平成年代に入ると、一〇〇羽以上記録されるほど増加し、今回の調査で関戸多摩川の上を上流へ向かって飛行する約五〇〇羽の群を目撃した(平成七年十月二十三日)。上野の不忍池などの繁殖地から、東京湾などへ採餌に出かけていた群の一部が、多摩川中流域にまで進出してきたようである。ユリカモメは、昭和三十年代後半(一九六〇~一九六二)には、多摩村域の多摩川では目撃できなかったが、昭和四十年代から姿を見せ始め、多いときには一〇〇羽以上の群が記録されるようになった。食性は雑食性で、魚類・昆虫類・ネズミの死骸などから、残飯に至るまで貪欲にあさる鳥で、今では東京湾の埋立地のごみの山に群がる鳥の一つになっている。ユリカモメが多摩川中流域に姿を見せ始めた時期と、ごみ投棄量が増えて流域の環境汚染が始まった高度経済成長期とほぼ同時期であるのは、はなはだ皮肉な現象というべきであろうか。

図3―13 カワウ
遠距離飛行の時には、ガンの群のように編隊を組む