2 前期・中期旧石器時代

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 前期旧石器時代の遺跡は宮城県の上高森遺跡や馬場壇A遺跡、中峯遺跡が確認されているにすぎず、その様子はほとんど知られていない。約六〇万年前に始まった前期旧石器時代は一二~一三万年前ごろに中期旧石器時代に移行する。この前期旧石器時代と中期旧石器時代とは、調整石核(せきかく)の出現を目安に区分される。
 石器は石を打ち欠き、剥離(はくり)して加工する。適当な石を選択し、それをそのまま加工して石器を作る場合と、あらかじめ石器の素材となる剥片(はくへん)を作り、その剥片を加工して石器を作る場合とがある。前者を石核石器、後者を剥片石器、素材となる剥片を剥離する石の塊を石核と呼ぶ。さらに、後者の剥片石器の場合、石核となる石に手を加えず、そのまま素材となる剥片を剥離する場合と、あらかじめ加工(石核調整)してから剥片を剥離する場合とがある。石核調整するのは、より効果的に素材となる剥片を剥離するためであり、石核調整した石核を調整石核と呼ぶ。調整石核による石器作りはより複雑な製作工程であり、抽象的な思考を必要とする。この製作方法の出現の背景として原人から旧人への進化、古人類の脳の進化を考える研究者もいる。
 調整石核が出土した中期旧石器時代の遺跡もまたその数が限られている。その数少ない中期旧石器時代の遺跡の一つが多摩市との市境に近い稲城市大丸(おおまる)の多摩ニュータウンNo.四七一B遺跡であり、多摩丘陵最古の石器群でもある(図4―5)。

図4―5 中期旧石器時代の石器(多摩ニュータウンNo.471B遺跡出土)

 多摩ニュータウンNo.四七一B遺跡の石器群は、約五万年前に堆積した東京パミス層の上下から発見され、横広に剥離された剥片を素材とした両面加工の尖頭器と掻器(そうき)がある。中期旧石器時代は両面加工の尖頭器(せんとうき)の出現を目安にして、約七万年前を境にした古段階と新段階に区別できるといわれており、多摩ニュータウンNo.四七一B遺跡出土の石器群は石器のあり方と出土層位から新段階にあてることができる。
 彼らがどのような生活をしていたのか明らかでないが、出土状態や石器を作る石の種類などから、遺跡で石器を作ることは少なく、石器を持ち運びながら転々と動物を追って移動する生活を送っていたが、その移動距離はそれほど大きくなく、列島に斑状に点在したと思われる適地を領域にしていたと考えられている。多摩市や稲城市の周辺は、彼らが生活するのに適した場所であったのであろう。
 
『多摩市史 通史編1』「第4編 原始および古代 第1章旧石器時代」 訂正文(平成15年3月 多摩市教育委員会)