2 遺跡の立地と型

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 東西に延びる多摩丘陵は地形的に登戸と町田を結ぶ線付近で東西に二分され、東側には港北ニュータウン、西側には多摩ニュータウンがある。両地域とも日本でも有数の開発事業地域であり、開発に伴う遺跡調査が大規模に行われ、多くの遺跡が消滅した代償として多大な考古学的成果があがっている。多摩丘陵西側の多摩ニュータウン地域の地形は谷戸に代表されるように、起伏に富んだ平坦地の乏しい地形である。一方、港北ニュータウン地域は低地と比高差の少ない緩やかな丘陵で、比較的広い平坦面が多く、沖積地も広い。このため、港北ニュータウン地域では面的広がりをもった大規模集落が形成されやすく、特に縄文時代後期の集落規模や遺跡の在り方では、多摩ニュータウン地域と際立った違いがある。また、武蔵野台地では地形的変化に乏しいため、野川の「ハケ」に代表されるように、中期には湧水線に沿って大規模集落が形成された。
 このように、地形的要因によって隣接する地域でも遺跡の立地や在り方が異なり、多摩ニュータウン地域では小支谷を単位とした地域的まとまりが作られ、複雑な地形が人々の活動の場をより限定的なものにしていたようである。そして、活動の具体的痕跡としての遺跡は、その活動に応じて様々な型(かた)を残す。また、土器と同様に千差万別な遺跡も共通の社会基盤の上で展開されたものであるため、共通項で捉えられる。こうした遺跡群を理解する方法として、小林達雄氏は遺跡の立地と規模、遺構・遺物の種類と量・質、存続期間などから多摩ニュータウン地域の縄文時代の遺跡を六パターンに分類した(表4―1)。
表4―1 縄文時代遺跡の6パターン
パターンの特徴
A広い平坦面を有する台地上に立地し、多数の住居跡および貯蔵穴などのピット群、墓壙群などがある。遺跡の中心に広場がある。
土器、石器などの各種の遺物が豊富。とくに、土偶・石棒などその時代のいわゆる特殊遺物がしばしば認められる。またかなり遠隔地から搬入された土器などをもつ。土器形式にして2~3型式またはそれ以上にわたる継続的な定住地となっている場合が多い。
B馬の背状の舌状台地の先端部などに立地し、数棟から10数棟に及ぶ住居跡がある。貯蔵穴などのピット墓壙群など住居跡以外の遺構は少ない。広場としての平坦な場所は狭い。
土器、石器などの遺物は多いが、その時代の特殊遺物の類はまれである。
存続期間は1土器型式期間のみで完結している場合が多く、その先後の型式が認められる場合でもきわめて断片的である。
C斜面裾部または丘陵頂部などの狭い平坦地に立地し、1~2棟の住居跡がある。他の遺構はほとんどない。遺物量はそれほど多くない。
Dかなり急勾配の斜面地などにも立地し、住居跡のないのが特徴である。ほかの遺構はほとんどないがまれに正体不明のピットなどを持つ場合がある。
土器はせいぜい数個体を限度とし、石器の発見はまれである。
また、炉跡や焼土なども確認されない。これは火を焚かなかったということではないが、その痕跡を遺す程度の継続的使用がなかったことを意味するものと考えられる。
Eその他A~Dのセトルメントから離れて、独立的に存在する墓地、デポ、土器製作用の粘土の採掘跡、石器製造跡などがある。
Fその他、遺物・遺構などの実体として確認しえないが一晩だけのキャンプ地とか、道、狩猟・採集の場所などを想定しうる。
小林達雄「多摩ニュータウンの先住者―主として縄文時代のセトルメント・システムについて―」(『月刊 文化財』1973年1月より)

 実際の縄文社会にあっては、役割の異なる各パターンが複雑に連結した構造になっていたと想像される。特に中期には、AやBパターンの遺跡が形成され、それらを中心とした社会が展開された。