日本列島で最も古い土器は、細石刃などの石器群に伴って発見されている。現在まで、長崎県佐世保市泉福寺(せんぷくじ)洞穴から発見された豆粒文(とうりゅうもん)土器が最古の土器とされているが、近年、神奈川県大和市月見松遺跡群の上野(かみの)遺跡などから無文土器が出土し、豆粒文土器より古くなる可能性もでてきた。この時期、旧石器時代的な石器は次第に姿を消し、有舌(ゆうぜつ)尖頭器が石器の中心になる。この段階の土器は隆起線文(りゅうきせんもん)系土器様式と呼ばれ、多摩丘陵からの発見も増加してくる。これ以後、爪形文(つめがたもん)系土器様式、多縄文(たじょうもん)系土器様式へと続いていく。
多摩ニュータウン地域の草創期は三段階に大別される。第一段階は大栗川中流域に位置する八王子市堀之内の多摩ニュータウンNo.七九六遺跡で、斜格子文・沈線文などの施された土器とともに無文の土器を伴い、草創期の最古段階である。第二段階はNo.七九六遺跡に近接する八王子市堀之内の多摩ニュータウンNo.四二六遺跡出土の隆起線文土器の段階、続いて八王子市下柚木の多摩ニュータウンNo.一一六遺跡出土の微隆起線文土器の段階である。多摩市内には草創期の遺跡は一五か所ほどあるが、すべて隆起線文土器の段階である。しかし、そのほとんどが有舌尖頭器や尖頭器など、数点の石器の単独出土遺跡であり、わずかに落合の多摩ニュータウンNo.五七遺跡から隆起線文土器の口縁部が一点出土しているだけである(図4―14―1)。No.四二六遺跡や稲城市駒沢学園校地内遺跡、町田市なすな原遺跡などからは、まとまった量の土器が出土し、復元もされている。
草創期の土器も当初から煮沸用で、形態には円形丸底形と方形平底形があるが、多摩地域の土器は前者に属する。石器としては、多摩ニュータウンNo.三七九遺跡(諏訪)、同No.四五七遺跡(鶴牧)、同No.七三七遺跡(唐木田)、同No.七五三・七五四遺跡(落合)、同No.七六九遺跡(落合)などから有舌尖頭器や尖頭器、同No.二七遺跡(永山)、同No.三七九遺跡から石斧が出土している。さらに、東寺方村発見とされる大型石斧も知られている(岡本一九七九、須賀川市立博物館首藤コレクション)。これらの石器が出土する丘陵部は狩猟の場として活用されたと推測される。これに対し、土器を出土する遺跡は河川沿いの開けた低位段丘面や緩斜面に位置し、居住空間であった可能性が高い。
多摩市内ではニュータウン開発をはじめ、発掘調査の主体が丘陵部であったため、現在では低位面の開発がほとんど終了しており、草創期を含め調査以前に遺跡が消失した可能性を残しており、遺跡未発見の背景として考慮する必要がある。ともあれ、草創期のこの地域ではまだ住居跡は確認されておらず、移動を中心とした簡易な住居形態であったと推測される。なお、多摩市域周辺では草創期後半の爪形文系土器様式以後の遺跡はきわめて乏しく、町田市川島谷遺跡から同様式の土器が発見復元されている程度である。