早期前半の多摩丘陵は撚糸文系土器様式の地域圏に属し、多摩市内には約四〇か所の遺跡があり、縄文人の痕跡が急激に増加する。撚糸文系土器様式は撚紐を軸棒に巻き付けた原体を回転施文した土器を主体とし、器表面には撚糸文や縄文が施される。形態は丸底ないし尖底の深鉢形で、五段階の変遷がある。多摩ニュータウンNo.五二遺跡(永山)はこの時期を代表する集落で、この発掘が撚糸文系土器様式の研究を大きく飛躍させた。特にこの遺跡から器表面に縄文+撚糸文を付けた「JY型土器」が発見された意義は大きい(図4―14―2)。この型式の土器は多摩市周辺では多摩市唐木田から町田市上小山田の多摩ニュータウンNo.九九遺跡などで出土している。しかし、その後三〇年が経過し、多摩丘陵や周辺地域の調査が重ねられてきたにもかかわらず、現在でも「JY型土器」は一般的でなく、散見する程度しか発見されていない。多摩から町田のごく限られた地域に流行したこの土器の製作集団とは。その後どうなったのか。どう理解すべきか。依然として解明されていない謎である。
No.五二遺跡では撚糸文系土器様式期の竪穴住居跡三軒も発掘されている。この時期の住居跡の発掘例は少なく、乞田川流域では本遺跡のみであり、貴重である。また、住居内から炉跡が検出されたことも特筆される。炉が住居設備として一般化するのは早期末から前期であるからであり、土器の問題とともにまだ解明されていない問題である。No.五二遺跡の三軒の住居はほぼ同時期の住居と考えられ、早期前半が多摩市域における最古の住居の出現期と位置付けられる。二軒から三軒の住居からなるCパターンの遺跡の出現であり、小集団の定住生活の開始期である。
早期中葉は、中部高地に中心をもつ後半段階の押型文(おしがたもん)系土器様式と、沈線で器面を飾る貝殻沈線文系土器様式が共存する。多摩地域ではこの時期の遺跡は激減し、多摩市内でも沈線文土器が出土した和田・百草(わだ・もぐさ)遺跡、押型文土器が出土した多摩ニュータウンNo.七四〇遺跡(図4―14―4)など数遺跡であり、すべてDパターンに属する。早期後半になると当地域は貝殻の背による条痕文を主文様とし、胎土に植物性繊維を混入した条痕文系土器様式(図4―14―5~7)の地域圏に含まれる。再び遺跡数は増加し、遺物・遺構ともに多数発見されるようになる。多摩市内でも同様で、この時期の遺跡は約六〇か所ある。陥穴(おとしあな)と炉穴(ろあな)の盛行期であり、陥穴は多摩丘陵を埋め尽くすがごとく多数発見され、多摩市内でも現在までに約一七〇〇基の陥穴が発見されている。多摩丘陵が狩猟の場として活発に利用されていた証である。しかし、多摩市周辺では早期中葉から後半に住居が作られた形跡は確認されていない。集落は早期前半で一時姿を消し、再び登場するのは前期前半になってからである。
図4―14 草創期・早期の土器
1:隆起線文系 2:撚糸文系(JY型) 3:同左(平坂式) 4:押型文系 5.6:条痕文系 7:条痕文系(鵜ケ島台式)(1:3/5、3・5~7:1/9)