3 前期(約六一〇〇年前~四八〇〇年前)

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 前期になると遺跡はさらに増加し、多摩丘陵では前期後半に遺跡数のピークを迎える。多摩市内では前期の遺跡が一六六か所程知られ、そのほとんどが多摩川、大栗川、乞田川を望む丘陵の平坦地、尾根、中腹、裾部の狭い平坦地、急斜面など、種々の地点に立地している。かつ、これらの遺跡は遺物はあるが遺構を伴わないDパターンないし、遺構を伴っても住居跡が一軒~三軒のCパターンに属している。多摩市内では早期後半から前期後半にかけて遺跡数が増加していくが、CパターンかDパターンの遺跡が約九割を占めている。しかし、乞田川流域では前期前半から後半を通じて小規模ながらも集落が二キロ前後の距離で継続していく状況が、最近明らかになってきた。前期は、繊維を混入し縄文を多用する羽状(うじょう)縄文系土器様式の前半と、繊維を含まず竹管文と簡素な縄文を主とする諸磯式土器様式の後半とに分かれる。特に、前半の羽状縄文系土器様式において、平底の土器が一般的となり、深鉢形だけでなく、台付土器などの新しい形式が出現した。土器の発達史においても画期である。羽状縄文系土器様式は花積下層(はなづみかそう)式、関山(せきやま)式、黒浜(くろはま)式へと推移する。
 前期初頭の花積下層式は羽状縄文系土器様式の名が示すように、本格的な羽状縄文が採用されるとともに、撚糸文を蕨(わらび)手状に押し付け施文する文様などが特徴的である(図4―15―1・2)。多摩市内では多摩ニュータウンNo.二七遺跡、同No.五五遺跡(豊ケ丘)、同No.四五七遺跡、同No.四六六遺跡(豊ケ丘)などがこの時期を代表する遺跡で、No.二七遺跡、No.四五七遺跡、No.四六六遺跡で住居跡が確認されている。特にNo.二七遺跡、No.四五七遺跡では三~四軒の住居跡が検出され、早期より大きい規模と内容を持つ集落の萌芽期と考えられる遺跡で、早期的様相の脱脚期である。
 前期前葉から中葉の関山式から黒浜式になると、土器文様はさらに複雑化し、バラエティに富んだ文様が表出される。特に、関山式土器には羽状縄文、原体の端を湾曲させてつくるループ文、撚りの方向の違う撚糸を撚り合わせて作る異条斜縄文、組み合せた紐で作る組紐縄文など種々な縄文が出現する(図4―15―3・4)。まさに、縄文の極致ともいうべきものである。さらに、浅鉢形土器、片口土器などの新形式が出現する。この時期、遺跡数は急激に増加し、多摩丘陵は前期的様相を確立する。多摩市内では多摩ニュータウンNo.二七遺跡、同No.五二遺跡、同No.五七遺跡、同No.二八一遺跡(愛宕)、同No.三七九遺跡、向ノ岡(むかいのおか)遺跡(連光寺)、原峰(はらみね)遺跡(関戸)など多くの遺跡がある。No.五七遺跡、No.二八一遺跡、No.三七九遺跡、No.七四〇遺跡(唐木田)などは一軒から三軒程度の小規模な集落である。しかし、これら以外の大半の遺跡はいずれも丘陵の尾根や中腹、急斜面などに立地し、遺物の量は少なく、住居などを伴わない。この時期、武蔵野台地の埼玉県富士見市打越(おっこし)遺跡や多摩丘陵東端の神奈川県横浜市南堀(みなみぼり)貝塚など、周辺地域では同時期に一〇軒以上の住居を有するAパターンやBパターンの遺跡が出現している。しかし、多摩丘陵地域ではそのような大規模な集落は出現せず、多摩丘陵の特殊性が窺える。
 前期後半の諸磯式土器様式になると、土器文様に半截竹管文が多用される一方、縄文は比較的簡素化する。それまで土器の胎土中に混入されていた繊維も混入されなくなる。この様式は諸磯a式、諸磯b式、諸磯c式に細分される。諸磯a式では半截竹管(はんさいちっかん)による肋骨文、木ノ葉文、諸磯b式では半截竹管による沈線文とともに、粘土紐を貼り付けた浮線文が発達する(図4―15―6・7)。諸磯c式では縄文は稀で、器面に半截竹管による条線が施され、貼付文を特徴とする(図4―15―5)。また、諸磯式期には、前時期以上に浅鉢、鉢、壺など多種多用な新形式が登場した。前期後半の遺跡は市内では約一二〇か所を数え急増する。このうち住居跡発見遺跡は一〇か所ほどある。諸磯a式期の遺跡には多摩ニュータウンNo.三七遺跡(愛宕)、同No.四五七遺跡、同No.七四〇遺跡などあり、同No.四五七遺跡では住居跡が検出されているが、市内では数少ない。諸磯b式期になると多摩ニュータウンNo.一九遺跡(諏訪)、同No.二五遺跡(諏訪)、同No.三〇遺跡(永山)、同No.五五遺跡、同No.八八B遺跡(唐木田)、同No.九一遺跡(唐木田)、同No.一二二遺跡(唐木田)、和田西遺跡(和田)、桜ケ丘ゴルフ場内遺跡(連光寺)など遺跡数が急増する。
 乞田川と大栗川の合流点に位置する向ノ岡遺跡では住居が検出され、獣面把手をもつ土器(図4―28―5)などが発見されている。多摩市内における諸磯b式期の遺跡増加は多摩丘陵全域に共通する。しかし、次の諸磯c式期になると市内の遺跡は多摩ニュータウンNo.九一遺跡などわずかとなり、住居跡も確認されず、諸磯a式期と同様の状況となる。諸磯式土器自体は関東から中部地方、さらに三宅島などの伊豆諸島にまで及び、交流の広さを物語っている。前期後半の諸磯式期には遺跡数が増加し、分布圏も拡大するにもかかわらず、遺跡の規模は依然として小規模である。
 前期の最終末になると、諸磯c式の系統を引いた、十三菩提(じゅうさんぼだい)式土器様式が出現するが、諸磯c式期の状況を継承し、多摩市内の遺跡の数はさらに減少する。しかし、多摩丘陵では東側の地域にこの時期の遺跡の主体があり、多摩市周辺域の遺跡減少傾向は他地域より緩やかだったようである。
 以上、多摩市内の前期遺跡は遺跡数が多いにもかかわらず、規模の小さいことが指摘できる。そのほとんどが住居を伴わないDパターンの遺跡であり、集落にしても二軒~三軒の小規模なものである。一般的に、縄文時代前期は中期や後期に典型的な大規模な集落の成立期と考えられ、早期に定住化が普及し、前期に比較的大きな集落が形成される。しかし、多摩丘陵では小規模な集落しか形成されていない。むしろ、こうした小集落が多摩丘陵における普遍的な形態で、基礎的単位なのである。この原因の一つに多摩丘陵のヤセ尾根地形があげられる。
 他方、住居以外の遺構では向ノ岡遺跡で発見された集石群が注目される(図4―15)。長野県阿久(あきゅう)遺跡では集石が径約一〇〇メートルに及んで環状に配され、立石土坑と列石を伴って縄文時代前期の精神生活の一端を示している。阿久遺跡に比べると向ノ岡遺跡の集石は小規模であるが、これを築いた人々の精神文化を示す遺構として貴重である。出土遺物には棒状石製品や線刻石などもあり、祭祀的要素も窺わせる。川に近いこの地で、狩猟、漁撈、採集物を調理し、祭を行ったのであろうか。

図4―15 前期の土器と集石群
1~4:羽状縄文系(1・2:花積下層式 3・4:関山式) 5~7:諸磯式


向ノ岡遺跡集石群 (5~8号)