中期後半の加曽利E式土器様式は、勝坂式土器様式と東関東に分布していた阿玉台(あたまだい)式土器様式を統一し、東北地方を中心に分布する大木(だいぎ)式土器様式の影響を受けて成立した土器様式で、キャリパー形の深鉢形土器を主とし、S字文、懸垂文などが施文される(図4―16―10~13)。東北地方の大木式土器以外に、長野県・山梨県の中部高地を中心に分布する曽利(そり)式土器様式とも密接な関係をもっている。特に、武蔵野台地から多摩丘陵、さらに南の相模野台地には曽利式土器が濃厚に分布し、加曾利E式土器を使用した人々と、曽利式土器を使用した人々が密接に交流していた。これは土器だけでなく、敷石住居や土偶など、遺構や遺物の様々な分野に現われている。
多摩市内には縄文時代中期に属する遺跡が約一一〇か所存在する。中期の遺跡分布を観ると、大栗川流域、乞田川流域、そして乞田川の最奥部の通称尾根幹線付近の三つに大別される。大栗川、乞田川流域では、本河川に面して、中期前半から後期の集落が二キロメートル前後の距離をおいて点在している、特に、大栗川流域では、下流に中規模集落である和田・百草遺跡、隣接する対岸丘陵上に日野市万蔵院台遺跡がある。そして、大栗川中流から上流域には、八王子市大塚の多摩ニュータウンNo.六七遺跡、堀之内の同No.四四六遺跡、同No.七二遺跡などのAないしBパターンの大規模集落が控えている。同様な遺跡分布は野川流域などでも指摘されている。乞田川本流域には、中期後半から中期末の集落が分布するが、その規模は小さい。一方、乞田川・三沢川の最奥部の多摩市から稲城市、川崎市にかけては、狭い地域に中期初頭から後半の集落が密集している。こうした多摩丘陵や武蔵野台地における高密度の遺跡分布は、縄文時代中期が食料獲得能力の向上した時代であったことを示している。
多摩市内では、五領ケ台式期から勝坂式期前半の遺跡は数が少ない。しかし、前述の多摩市から稲城市にかけての多摩ニュータウン地域では、多摩ニュータウンNo.四七一・四七三遺跡(坂浜)などこの時期に大規模集落が形成される。勝坂式期後半になると、多摩市内でも遺跡数が増える。この時期の代表的遺跡として多摩ニュータウンNo.四六遺跡(諏訪)、和田・百草遺跡がある。両遺跡ともに、勝坂式期を主体とする集落跡である。No.四六遺跡は、多摩市内のみならず多摩丘陵でも大規模な遺跡であり、尾根を挟むように三一軒の住居跡が同一等高線上に馬蹄形状、あるいは尾根を挟んで互いに向き合うように弧状に配されている(図4―16)。住居は尾根の斜面に配され、中央の尾根平坦面は共同の広場として利用されている。出土遺物としては完形ないし完形に近い土器が七〇余点、打製石斧一〇〇〇点余のほか、磨製石斧、石鏃、石皿、土偶など遺物も豊富である。和田・百草遺跡は台地状地形の先端部に展開され、未調査区がかなりあるため推定の域をでないが、中央広場を囲み環状に住居が配されている。出土遺物も完形土器をはじめ、土偶、石棒(せきぼう)などNo.四六遺跡と同様である。この時期の「縄文モデルムラ」と呼ばれる大規模集落は、広大な平坦面を有する台地の上に営まれる例が多く、それと共通する形態と言える。他方、No.四六遺跡のように尾根を挟んで、斜面に住居が配される集落は、多摩丘陵の地形的な制約を受けた結果であり、丘陵部に営まれた中期集落の一形態といえよう。
中期の集落は前期に比べ数段大きくなっている。前期と中期の文化の相違は単に集落のみにとどまらない。土偶や石棒などの呪術的な遺物が普遍化し、様々な祭式が一層活発になった。No.四六遺跡や和田・百草遺跡から出土した蛇身を文様にした土器(図4―16―4)、人体をモチーフした土器(図4―28―3)は中期の精神文化を雄弁に物語っている。
中期後半の加曾利E式期には、多摩市内でも約九〇か所の遺跡が形成された。集落遺跡としては、多摩ニュータウンNo.五二〇遺跡、同No.五七遺跡、同No.七六九遺跡、和田・百草遺跡、向ノ岡遺跡などがある。No.五二〇遺跡はNo.四六遺跡の北東約七〇〇メートルに位置し、No.四六遺跡同様、加曾利E式期の住居跡一三軒が尾根を挟んだ両側の斜面に馬蹄形ないし弧状に配されている。中期末の加曾利E式期終末になると、柄鏡形敷石住居(えかがみがたしきいしじゅうきょ)と呼称される形態の住居が出現する。No.五七遺跡、No.七六九遺跡がその代表的集落であるが、二軒から三軒程度の小規模な集落となる。
以上、多摩丘陵と多摩市内の中期について述べてきたが、周辺地域の縄文時代中期の様相を概括しておきたい。中期には、関東地方各地域に特色ある土器様式が成立し、その分布圏を拡大したり、縮小したりした。中期前半の関東地方は大きく二つの地域圏に分割される。一方は、東関東を中心にした阿玉台式土器様式が分布する地域であり、他方は多摩丘陵を含む西関東地方で、勝坂式土器様式が分布した。中期前半には異った二つの土器様式圏に属する人々が関東地方で併存するが、多摩丘陵は後者に属した。中期後半になると、両地域とも、加曾利E式土器様式の分布する一つの地域圏になる。これと同時に、西関東地方と同じ土器様式を使用していた甲信地方の人々は、勝坂式土器様式の流れを強く引いた曽利式土器様式を使用する集団に変わり、それぞれ異なる様式と地域圏に組み込まれていく。この両者の土器様式継承の差がどのようなものか明確でないが、両者は互いに積極的交渉をはかった。特に、多摩丘陵を含む西南関東地方では曽利式土器が加曾利E式土器に伴って検出されることが多く、その影響力は多大であったようである。しかし、多摩地域の集団は加曾利E式土器様式を基本としながらも、土器に撚糸文を付けたり、独自の地域的土器である連弧文(れんこもん)土器(図4―16―11・12)を産み出したり、東関東の集団と常に対峙していた。これは、精神文化の道具である土偶にも反映し、東関東の集団が土偶を保有しないのに対して、多摩地域では独自の土偶を大量に保有していた。ともあれ、多摩丘陵の集団は中期においても独自の地域圏を形成し、土偶の大量保有にみられるように、加曾利E式土器様式にあって主導的立場と優位性を維持してきた。その背景には、多摩丘陵の高い生産性と曽利式など他様式との積極的な交流があった。
図4―16 中期の土器と多摩ニュータウンNo.46遺跡空撮
1:五領ヶ台式 2~9:勝坂式 10~13:加曾利E式(11・12 連孤文土器)(1/10、5のみ1/12)
(1:T.N.T.740 2・3・7~10・12:和田・百草 4~6:T.N.T.46 11:向ノ岡 13:T.N.T.57)
No.46遺跡 尾根を挟んで両側に広がる集落