5 後期(約四〇〇〇年前~三〇〇〇年前)

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 中期末から後期初頭の土器様式には称名寺(しょうみょうじ)式土器様式、後期前半には堀之内式土器様式がある。称名寺式土器は関東一円、中部、さらに東北地方南部に及び、中期後半の加曾利E式、曽利式、大木式などの様式圏全域に分布した土器様式であり、西日本の中津(なかつ)式土器様式とも密接な関係にある。後期になると土器に磨消(すりけし)縄文が多用されるとともに、土器文様が一層平面的となる。称名寺式土器様式はJ字状、スペード状の区画文に磨消縄文や列点文などを施す(図4―17―1・2)。堀之内式土器様式は曲線的構造による沈線の弧状文、懸垂文、幾何学的構造による三角区画文などを主体とする(図4―17―3~7)。東関東集団の土器が縄文を多用するのに対して、多摩地域の集団は無文地に沈線を多用し、ここでも独自性を発揮している。

図4―17 後・晩期の土器と遺構(敷石住居、配石墓)
1・2:称名寺式 3~7:堀之内式 8:加曾利B式 9・10:晩期安行式 11~13:浮線網状文系(1・2・4~6:和田・百草 3:T.N.T.281 7:東寺方 8:T.N.T.750 9・10:新堂 11~13:落川・一の宮)


新堂遺跡1号配石墓

 称名寺式土器様式期には、中期末に出現した柄鏡形敷石住居がより顕著になる。中期末のものであるが、落合の多摩ニュータウンNo.五七遺跡の復元住居にその典型がみられる(図4―18―2・3)。上屋構造も復元され、建築的にも貴重な遺構である。市内では他に、No.五七遺跡と谷を挟んで位置するNo.七六九遺跡、和田・百草遺跡(図4―17・図4―20)、桜ケ丘ゴルフ場内遺跡などからも後期の敷石住居が発見されている。後期になると、遺跡数は激減し、多摩市内では後期初頭から前葉の遺跡はわずかに一五遺跡ほどとなる。多摩ニュータウン地域内全体では、この時期の遺跡の約半数が町田市側の境川流域に分布している。なお、この後期前半、多摩丘陵の東側では大規模な集落が多数形成されており、多摩市を含む多摩丘陵西側とは際立った違いをみせている。
 後期後半は堀之内式土器様式から発展し、より精緻な土器となる加曾利B式土器様式(図4―17―8)、波状口縁の帯縄文(おびじょうもん)系土器(精製土器)と紐線文(ひもせんもん)系土器(粗製土器)が特徴的な後期安行(あんぎょう)式土器様式と続くが、多摩市内ではわずかに新堂遺跡(和田)、東寺方遺跡などの四遺跡のみになり、住居も発見されていない。多摩市周辺でも、稲城市平尾遺跡、町田市なすな原遺跡などごくわずかな発見に止まっている。

図4-18 縄文時代の住居構造
1.住居構造復元模式図(青梅市史より作図)


2.T.N.T.57 復元敷石住居小屋伏


3.T.N.T.57 復元敷石住居

 縄文時代後期における遺跡の急激な減少傾向は多摩丘陵のみの現象ではない。縄文時代中期には一〇〇軒近い大規模集落の営まれた中部、甲信地方においても同様である。他方、都内の北区や港区、文京区、東京湾東岸の千葉市、市川市、松戸市などでは、この時期に直径一〇〇メートル以上にも及ぶ大規模な環状貝塚が多数形成されている。この多摩丘陵内陸部の凋落現象と、東京湾沿岸の繁栄の原因は何か。現在、有力なのは火山灰降下説で、多摩丘陵の北側には中期末から後期の初めと考えられる新期火山灰が数センチメートル堆積している。火山灰の降下とその後の気候冷涼化が内陸部の生態系を破壊し、遺跡減少の原因になったと考えられている。新堂遺跡の花粉分析結果はその証の一つかもしれない。