縄文時代晩期には東北地方を中心とする亀ケ岡(かめがおか)式土器様式と、西日本を中心とする凸帯文(とったいもん)系土器様式の二様式が大きく対峙する。関東地方は両者の分布圏の中間に位置し、東北地方の影響を強く受けながらも、前時期の土器様式を継承した独自の晩期安行式土器様式の地域圏を形成し、そして晩期終末では浮線網状文(ふせんあみじょうもん)系土器様式となる。多摩丘陵も晩期安行式土器様式圏に属するが、この時期は関東地方全体でも遺跡数がきわめて少なく、多摩ニュータウン地域全体で約一〇か所、多摩市内でも五遺跡しかない。
多摩市の縄文時代晩期を代表するのが新堂遺跡である(図4―17―9・10)。晩期中葉の墓地で、楕円形の土坑に石を巡らした墓が約三〇基検出され、スプーン形土器、土偶、動物形土偶、石剣など、実用品でない特殊な遺物が出土した(図4―26―3~8)。晩期末の遺跡には落川・一の宮遺跡がある。新堂遺跡に近接した沖積地の遺跡で、土坑内などから一括で廃棄された遺物が出土した(図4―17―11~13)。焼土や炭化物の跡、石器の製作跡と考えられる遺構も確認されている。いずれにしても、数少ない晩期の遺跡が近接して発見されており、沖積低地の遺跡の存在を改めてクローズアップさせた点で意義が深い。
多摩丘陵では、後期以後、遺跡数を激減させながら縄文時代の終わりを迎え、新しい文化である弥生時代へと移行していく。