2 早期

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 この時期には竪穴住居が一般化する。永山の多摩ニュータウンNo.五二遺跡では早期前半の撚糸文系土器様式期の住居跡三軒が発見されている。一・二号住居は縦横約二・五メートルの隅丸方形、面積六平方メートルほどの小型の住居である。注目されるのは一号住居に炉があることである(図4―19―1)。早期前半の竪穴住居には炉がないのが一般的で、炉が出現するのは早期末から前期と考えられていた。八王子市柚木の多摩ニュータウンNo.二三九遺跡、同市南大沢の同No.一四五遺跡など、多摩ニュータウン地域の早期前半の住居には炉をもつものが多く、これらから数キロメートルしか離れていない町田市小山田遺跡の住居には炉がない。炉のない住居が圧倒的に多いこの時期にあって、なぜ多摩ニュータウン地域の住居に炉が一般的なのか、その理由はまだ明確でない。ただ最近、千葉県芝山町空港No.七遺跡などで炉を伴う早期初頭の住居が発見されており、環境に伴う地域性とともに住居規模の大小と住居内施設の相関関係が想定されている。ともあれ、多摩ニュータウンNo.五二遺跡の三軒の住居跡は同一時期の住居と考えられ、多摩市内における最古の集落の出現を示すものである。この次の段階には多摩丘陵から武蔵野台地で竪穴住居が急激に増加する。縄文時代早期前半は、定住化が普及した重要な時期である。
 それに対し、後続する早期後半の南関東では竪穴住居の発見例が減少する。多摩市も例外でなく、この時期の住居は未発見である。その一方で、炉穴と呼ばれる半地下式の屋外炉や集石炉、屋外焼土など、火を使う施設が多数発見される。炉穴は多摩丘陵では神奈川県境の境川に面した町田市側の丘陵斜面に集中し、多摩市でもNo.七四〇遺跡の一一基を筆頭に和田・百草遺跡、原峰遺跡などで総計約三〇基が発見されている。この時期は狩猟用の陥穴が急増する時期であるが、陥穴と炉穴の関係はなお未確認である。