3 前期

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 住居の平面形は長方形ないし台形、方形に変わる。住居規模も大型化し、住居内に炉をもつものが一般的になる。その典型は多摩ニュータウンNo.五七遺跡七号住居で、入口を東南に向け、入口付近に二か所の炉がある。周囲の壁に沿って二〇数本の柱が立ち、長軸に沿って六本の主柱が並ぶ。屋根は寄棟造りに復元され、住居面積は二八平方メートルである。前期前半の関山式期の住居であるが、隣接してもう一軒小型の住居があり、大小二棟の住居が一組となっていたようである。原峰遺跡の住居は六本の主柱穴をもち、中央やや奥壁寄りに炉跡がある(図4―19―2・図4―20)。構造的にはNo.五七遺跡七号住居と同じであるが、住居面積は三五平方メートルで、多摩丘陵部でも最大級の住居跡である。多摩市内では前期前半の集落は乞田川流域に集中し、上流から多摩ニュータウンNo.七四〇遺跡、同No.四五七遺跡、同No.五七遺跡、同No.四六六遺跡、同No.二八一遺跡、同No.二七遺跡、同No.三七九遺跡、原峰遺跡と、一キロメートル前後の距離で一定間隔に並んでいる。ただし、これらすべてが同時期に存在したのではなく、前期前半の約五〇〇年間に次々に移動した軌跡と考えられる。
 前期後半の諸磯式土器様式の時期になると、住居の平面形は隅丸方形や円形になる。遺跡数が急激に増加するにもかかわらず、住居の発見されない遺跡が多いが、多摩市内の集落遺跡は諸磯b式期のもので、多摩ニュータウンNo.九一遺跡(唐木田)、同No.一二二遺跡(唐木田)、同No.四五七遺跡、同No.七四〇遺跡、同No.一九遺跡(諏訪)、同No.五一四遺跡(貝取)、桜ケ丘ゴルフ場内遺跡などがあり、前半期と同様な分布を示している。いずれも二~三軒の住居からなる小規模な集落で、住居規模も一一平方メートル程度の小型なものが多い。これに対し、神奈川県横浜市南堀貝塚や埼玉県富士見市打越遺跡など他地域では、中央の広場を囲んで一〇軒近い住居が同時に存在する環状の大集落がみられる。多摩丘陵に属する町田市本町田遺跡も中央広場や土坑、土器捨て場を有し、集落形態は南堀貝塚などと同じであるが、住居は二軒程度であり、多摩丘陵地域のこの時期の集落が比較的小規模であった状況が窺える。このため、当地域で発見されている住居が季節的なものであった可能性も含んでいる。