中期の竪穴住居に間取りのあることも明らかになってきた。炉と出入口を結ぶ線や炉を起点に炉辺部、周辺部、前部、奥部など機能的に分割されていたらしい。中期前半の勝坂式期の和田・百草遺跡六号住居跡は長径六・六メートル、短径六メートルの楕円形で、出入口は東南側と推測される(図4―19―4・図4―20)。石囲炉と地床炉(じしょうろ)の二か所の炉があり、主柱穴は七本で、改築が行われている。注目されるのは主柱穴間を結ぶ浅い溝で、住居内を間仕切りした痕跡と考えられる。また、柱穴に沿って打製石斧のまとまりが二か所にあり、石斧を中央部と周辺部に区別して置いていたと推測される。住居の拡張や改築との関係の検討が必要であるが、こうした主柱穴を結ぶ溝の検出例が増えている。同遺跡七号住居は五本柱穴で、拡張の例である(図4―20)。最近の青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡の調査成果などから、各地の大型建物跡の柱間が三五センチを基準として建てられた可能性が説かれ、縄文時代の基本尺度として「類モノサシ」などと呼ばれている。多摩市の住居の場合、柱間寸法は三五センチでは割り切れないが、なんらかの尺度があったと推測される。
図4―19 住居形態変遷図(各期の主な住居形態)
図4―20 各期の住居跡
T.N.T.52 1住(早期)・遺物出土状態
原峰 1住(前期前半)
間仕切りのある住居跡 和田・百草6住
拡張住居跡 同左7住(中期前半)
和田・百草 1住敷石住居と入口部の土壙(墓)(後期前半)
他方、中期前半には掘立柱を立てた平地式の大型建物がある。多摩市内では発見されていないが、稲城市坂浜の多摩ニュータウンNo.四七一・四七三遺跡では五棟が検出されている。長さ約一四メートル、幅約五メートルの建物で、竪穴住居に囲まれた広場に建てられている。このような掘立柱建物は各地で発見されており、共同の作業場ないし集会場のような施設と考えられている。なお、多摩市内では中期の竪穴住居跡は約七〇軒発見されている(表4―2)。
市No. | 遺跡名 | 草創期 | 早期 | 前期 | 中期 | 後期 | 晩期 | 縄文 | 合計 | 備考 | ||||
前半 | 後半 | 前半 | 後半 | 初頭 | 前半 | 後半 | ||||||||
9 | T.N.T.37 | ←1→ | 1 | 前期住居 | ||||||||||
22 | T.N.T.378 | 1 | 1 | |||||||||||
24 | T.N.T.20 | 1 | 1 | |||||||||||
50 | T.N.T.511 | ←1→ | 1 | 前期住居 | ||||||||||
51 | T.N.T.379 | 2 | 2 | |||||||||||
54 | T.N.T.19 | 1 | 1 | |||||||||||
57 | T.N.T.46 | 31 | 31 | |||||||||||
62 | T.N.T.91 | 5 | 5 | |||||||||||
87 | T.N.T.457 | 3 | 2 | 5 | ||||||||||
96 | T.N.T.57 | 2 | 8 | 10 | 敷石住居3軒 | |||||||||
107 | T.N.T.450 | ←1→ | 1 | 後期敷石住居 | ||||||||||
119 | T.N.T.27 | 4 | 1 | 5 | 敷石住居1軒 | |||||||||
113 | T.N.T.281 | 2 | 1 | 3 | 敷石住居1軒 | |||||||||
132 | T.N.T.52 | 3 | 1 | 1 | 5 | |||||||||
142 | T.N.T.466 | 1 | 1 | |||||||||||
146 | T.N.T.30 | ←2→ | 2 | 前期住居 | ||||||||||
155 | T.N.T.122 | 1 | 1 | |||||||||||
186 | T.N.T.740 | 2 | 2 | 4 | ||||||||||
200 | T.N.T.520 | 1 | 12 | 13 | ||||||||||
265 | T.N.T.745 | 1 | 1 | |||||||||||
287 | T.N.T.769 | 3 | 1 | 4 | 柄鏡形住居2軒 | |||||||||
10 | 和田・百草 | 7 | 1 | 1 | 9 | 敷石住居1軒 | ||||||||
27 | 向ノ岡 | 1 | 1 | 3 | 2 | 7 | ||||||||
29 | 桜ケ丘ゴルフ場 | 1 | 3 | 4 | 敷石住居1軒 | |||||||||
175 | 和田西 | 3 | 3 | |||||||||||
226 | 原峰 | 1 | 1 | |||||||||||
0 | 3 | 39 | 71 | 9 | 0 | 0 | 122 |
中期末から次の後期前半には住居形態が大きく変化し、柄鏡形のものになる。出入口部が発達したもので、そこに埋甕が埋設される場合が多い。多摩丘陵から中部高地では床面に石を敷き詰めた形式が流行し、柄鏡形敷石住居と呼ばれている。多摩市内では中期末から後期前半までの住居が一五軒発見されているが、このうち八軒が柄鏡形敷石住居ないし柄鏡形住居である。柄鏡形敷石住居は、敷石という特殊な構造と石棒などの祭祀遺物のあることから、祭祀遺構と考えられてきた。しかし、多摩丘陵地域では多数発見されることから、この時期の一般的住居である可能性が高い。敷石住居出現の原因として、遺跡数の急減とも絡んで、富士山の噴火とそれに伴う自然環境の変化、気候の冷涼化、これによる社会の変化などが挙げられているが、中期末に忽然と姿を現し、流行する原因は今なお解明されていない。