4 中期

319 ~ 323
 中期になると、竪穴住居の平面形は円形と楕円形が圧倒的に多くなり、後半には隅丸方形や五角形もみられる。主柱穴は四本から六本が基本で、住居面積は二〇平方メートルから三〇平方メートルである。炉は住居の中央か奥壁部に作られ、床を浅く掘り窪めた地床(じしょう)炉、土器を埋設した埋甕(うめがめ)炉、炉の周囲を円形ないし方形に石で囲った石囲(いしがこい)炉、炉の一端に石を添えた添石(そえいし)炉、埋甕炉と石囲炉を組み合わせた石囲埋甕炉などがある。多摩ニュータウン地域では、前半の勝坂式期には埋甕炉が多く、後半の加曾利E式期には石囲炉が多い。炉の機能には暖房、照明、火種保存、煙出し、除湿、食品の加工・調理などが考えられる。しかし、土器を炉に置いて煮炊きしたかどうかは不明であり、縄文時代の調理形態、食膳形態に関して不明な点が多いのが実情である。また、住居によっては壁際の床面に周溝あるいは壁溝と呼ばれる、幅・深さ約一〇センチ前後の溝が巡っている。これは住居の周囲に盛られた周堤の土の崩落を防ぐ縦板材の下端を固定したり、水はけを良くするための施設であり、勝坂式期からみられるが、加曾利E式期になって普及する。さらに、中期後半の加曽利E式期には出入口部に埋甕を埋設するものが多くなる。埋甕の性格について種々の説があるが、幼児埋葬施設とする説が一般的である。多摩ニュータウンNo.五二〇遺跡では、七軒の住居跡から合計一一基、同No.五七遺跡では一軒から二基の埋甕が検出され、向ノ岡遺跡や和田・百草遺跡でも発見されている。
 中期の竪穴住居に間取りのあることも明らかになってきた。炉と出入口を結ぶ線や炉を起点に炉辺部、周辺部、前部、奥部など機能的に分割されていたらしい。中期前半の勝坂式期の和田・百草遺跡六号住居跡は長径六・六メートル、短径六メートルの楕円形で、出入口は東南側と推測される(図4―19―4・図4―20)。石囲炉と地床炉(じしょうろ)の二か所の炉があり、主柱穴は七本で、改築が行われている。注目されるのは主柱穴間を結ぶ浅い溝で、住居内を間仕切りした痕跡と考えられる。また、柱穴に沿って打製石斧のまとまりが二か所にあり、石斧を中央部と周辺部に区別して置いていたと推測される。住居の拡張や改築との関係の検討が必要であるが、こうした主柱穴を結ぶ溝の検出例が増えている。同遺跡七号住居は五本柱穴で、拡張の例である(図4―20)。最近の青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡の調査成果などから、各地の大型建物跡の柱間が三五センチを基準として建てられた可能性が説かれ、縄文時代の基本尺度として「類モノサシ」などと呼ばれている。多摩市の住居の場合、柱間寸法は三五センチでは割り切れないが、なんらかの尺度があったと推測される。

図4―19 住居形態変遷図(各期の主な住居形態)


図4―20 各期の住居跡
T.N.T.52 1住(早期)・遺物出土状態


原峰 1住(前期前半)


間仕切りのある住居跡 和田・百草6住


拡張住居跡 同左7住(中期前半)


和田・百草 1住敷石住居と入口部の土壙(墓)(後期前半)

 他方、中期前半には掘立柱を立てた平地式の大型建物がある。多摩市内では発見されていないが、稲城市坂浜の多摩ニュータウンNo.四七一・四七三遺跡では五棟が検出されている。長さ約一四メートル、幅約五メートルの建物で、竪穴住居に囲まれた広場に建てられている。このような掘立柱建物は各地で発見されており、共同の作業場ないし集会場のような施設と考えられている。なお、多摩市内では中期の竪穴住居跡は約七〇軒発見されている(表4―2)。
表4―2 主な住居跡発見遺跡と住居跡の時期・数
市No. 遺跡名 草創期 早期 前期 中期 後期 晩期 縄文 合計 備考
前半 後半 前半 後半 初頭 前半 後半
9 T.N.T.37 ←1→ 1 前期住居
22 T.N.T.378 1 1
24 T.N.T.20 1 1
50 T.N.T.511 ←1→ 1 前期住居
51 T.N.T.379 2 2
54 T.N.T.19 1 1
57 T.N.T.46 31 31
62 T.N.T.91 5 5
87 T.N.T.457 3 2 5
96 T.N.T.57 2 8 10 敷石住居3軒
107 T.N.T.450 ←1→ 1 後期敷石住居
119 T.N.T.27 4 1 5 敷石住居1軒
113 T.N.T.281 2 1 3 敷石住居1軒
132 T.N.T.52 3 1 1 5
142 T.N.T.466 1 1
146 T.N.T.30 ←2→ 2 前期住居
155 T.N.T.122 1 1
186 T.N.T.740 2 2 4
200 T.N.T.520 1 12 13
265 T.N.T.745 1 1
287 T.N.T.769 3 1 4 柄鏡形住居2軒
10 和田・百草 7 1 1 9 敷石住居1軒
27 向ノ岡 1 1 3 2 7
29 桜ケ丘ゴルフ場 1 3 4 敷石住居1軒
175 和田西 3 3
226 原峰 1 1
0 3 39 71 9 0 0 122

 中期末から次の後期前半には住居形態が大きく変化し、柄鏡形のものになる。出入口部が発達したもので、そこに埋甕が埋設される場合が多い。多摩丘陵から中部高地では床面に石を敷き詰めた形式が流行し、柄鏡形敷石住居と呼ばれている。多摩市内では中期末から後期前半までの住居が一五軒発見されているが、このうち八軒が柄鏡形敷石住居ないし柄鏡形住居である。柄鏡形敷石住居は、敷石という特殊な構造と石棒などの祭祀遺物のあることから、祭祀遺構と考えられてきた。しかし、多摩丘陵地域では多数発見されることから、この時期の一般的住居である可能性が高い。敷石住居出現の原因として、遺跡数の急減とも絡んで、富士山の噴火とそれに伴う自然環境の変化、気候の冷涼化、これによる社会の変化などが挙げられているが、中期末に忽然と姿を現し、流行する原因は今なお解明されていない。