後期になっても初頭の称名寺式土器様式期から前半の堀之内式土器様式期には、中期末以来の柄鏡形敷石住居が続いた。和田・百草遺跡一号住居はその典型で、敷石が張出部と住居中央の炉の周囲から長方形状に敷かれている(図4―20)。入口部に径一・四メートルの円形の土坑があり、この中から注口土器と赤色顔料の塗られたミニチュア土器が出土した(図4―17―4~6)。土坑内の土壌分析ではリンの濃度が高く、墓坑と推測される。この時期の敷石住居は多摩ニュータウンNo.二八一遺跡、桜ケ丘ゴルフ場内遺跡でも発見されている。これ以外に、後期前半には隅丸方形に近く、敷石のない住居もある。向ノ岡遺跡で二軒発見されており、丘陵部でも数少ない例である(図4―19―7)。
現在までのところ、多摩市内では後期後半以後の住居は発見されていない。後期後半から晩期には方形の住居が一般的であり、周辺では稲城市平尾No.九遺跡や町田市なすな原遺跡で発見されている。