4 漁撈(川の幸)

334 ~ 335
 縄文人にとって、漁撈も狩猟とともに重要な生業の一つであった。多摩市内では漁撈関係の遺跡は確認されていないが、岩手県盛岡市萪内(しだない)遺跡では「えり」と呼ばれる追込み漁の遺構が発見されている。多摩川や大栗川、乞田川を前面にした多摩の縄文人も類似の罠漁や網漁、刺突、釣りなどで魚を捕っていたであろう。多摩市内の遺跡からは、漁網の錘りである土錘(どすい)、石錘、軽石製の浮子が出土している(図4―21)。これらの漁具には大小あるが、長さ五センチ前後のものが多く、土器片や扁平礫、軽石の両端を打ち欠いて網に取り付けたものである。中期以後、増加するが、多摩市周辺では後期に礫石錘の量が増加する。多摩川を見下ろす向ノ岡遺跡の縄文時代後期の集落は淡水性漁撈の拠点であった可能性が高い。
 多摩地域の漁撈の対象として、多摩川や大栗川、乞田川、あるいは谷戸川と呼ばれる谷間の小流、岩ノ入池などの沼地などに棲息するアユ、ウグイ、コイ、フナ、ハヤ、ウナギ、ドジョウ、ナマズ、マス、サケ、沢蟹、カメ、スッポン、カエルなどが考えられる。特に、多摩市域は近年までアユの名漁場として有名であった。また、多摩川のサケ漁は草創期から盛んで、あきる野市前田耕地遺跡では草創期の住居跡から多量のサケの骨が出土している。サケ・マスは季節になると多量に捕獲でき、薫製にして長期保存も可能であり、堅果類と並ぶ貴重な食料源であった。
 他方、多摩の縄文人が海洋性の水産資源を利用しなかったわけではない。乞田の多摩ニュータウンNo.四五〇遺跡から、イワシの背骨を施文具として押しつけた「魚骨押捺文(おうなつもん)」土器が出土している。前期前半の羽状縄文系土器様式に属するものであろうが、施文具、施文方法など土器文様としても、全国的に珍しいものである。イワシは現在の多摩市近辺では捕れないが、当時は縄文海進期にあたり、多摩市からわずか一〇キロメートルほど下流まで海が来ていた。海沿いのムラから魚を入手したのか、自ら捕獲したのか、さてまた土器自身を入手したのか、いずれにしても、類例の少ない貴重な資料である。魚類以外に、貝類も縄文人の貴重な食料であった。多摩丘陵の淡水域の貝にはタニシ、カラスガイ、シジミなどがある。多摩丘陵の縄文人もこれらの貝類を食べたであろうが、量的に少なかったのか、東京湾沿岸のような大きな貝塚は形成されていない。

図4―25 多摩ニュータウンNo.450遺跡出土魚骨押捺文土器(2/3)
(山口慶一、1985より)