1 第二の道具

336 ~ 337
 縄文人たちは生産活動に関わるマツリや人の誕生、成人、死などに関わる通過儀礼をはじめ、多種多用な儀礼や呪術を行っていた。それが遺跡や遺物として残されている。縄文人が作った道具には生業に関わる第一の道具に対して、祭祀や呪術に関わる儀式具や呪術具がある。これら精神文化に関する道具は第二の道具と呼ばれている。耳飾りや垂飾り、腕飾りなどの装身具類も、単に身体の飾りとしてではなく、呪術的、儀礼的、社会的意味合いをもっていたらしく、出土数が限られ、墓内から副葬品として特別な状態で出土する。また、耳飾りには耳たぶの穿孔という行為が付随する。こうしたことから、集団内の特別な人間が身に付けたものと考えられる。ここでは副葬品類や装身具類を含め、土偶、石棒などの精神文化遺物と埋葬遺構、さらに土器文様にみられる縄文時代の多摩人の精神世界をみてみたい。
 縄文時代における第二の道具の変遷は有孔円盤、人物様の線刻石などが出現する草創期に始まる。これらは現在、西日本でのみ発見されている。その後、早期撚糸文系土器様式期になると、縄文時代の精神文化を代表する土偶が関東でも出現する。この早期前半は竪穴住居の普及や小規模な集落の出現、加工具としての石器の増加、それらを含めた縄文カレンダーの確立に示されるように、その後の縄文文化を特徴付ける文化事象が普遍化する時期である。縄文文化の確立期であり、第二の道具の象徴である土偶の発生は重要な意味をもっている。
 早期末から前期になると、多摩丘陵では装身具としての石製玦(けつ)状耳飾りと土製耳飾りが出現する。この前期末には都内でも土偶が登場する。中期になると、装身具類に垂飾りとしての石製・土製玉類、ペンダント、土製耳飾り(耳栓)などが加わる。中期初頭には、土偶は関東山地裾部のあきる野市から八王子市、日野市にかけて散見される。中期前半の勝坂式土器様式期になると、多摩市内でも土偶が増加し、石棒も発見されるようになる。さらに丘陵部では仮面状土製品、三角柱状土製品、土鈴、イノシシ形土製品などが加わる。中期後半にもこれらは継承されるが、土偶は中期末で一旦途絶える。それに代わり、中期末から後期になると石棒祭式が盛行するとともに、後期前葉には再び土偶が出現し、量は多少減少するものの、他地域以上に保有している。晩期になると再び様々な祭祀用の道具が開花し、中期以後の土偶や石棒をはじめ土版、石刀、石剣、動物形土製品など、多種多様な精神生活に関する遺物が多摩市内で発見されている。