2 縄文イヤリングの盛行

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 縄文時代の前期、多摩丘陵の縄文人たちは玦状耳飾りという、耳たぶに装着する装身具を身に付けた。玦状耳飾りは円形で環状の一か所に切れ目があり、耳たぶを穿孔して吊り下げたもので、古代中国の玉器の一つである「玦」に形が似ていることから名付けられた。この装身具の起源が長江下流域の中国にあるとする説も出されている。神奈川県海老名市上浜田(かみはまだ)遺跡では早期末のものが墓壙から対で出土しているが、多摩丘陵では前期前半以降に流行する。石材は滑石や蛇文岩で、石材の産地が長野県から新潟県、富山県に限られるため、多摩へは製品が入ってきたと考えられる。
 滑石製玦状耳飾りは全国的に流行し、土製玦状耳飾りは滑石製の代用として作られたが、多摩地域では時期的に滑石製よりやや新しい前期後半に多い。しかも、関東地方の中では多摩丘陵は千葉県の北総地域と並んで、土製玦状耳飾りが流行した地域である。最近では、町田市真光寺の三矢田(みやた)遺跡から、三〇〇点を越える土製玦状耳飾りの発見があり、全国的にも類をみない。落合の多摩ニュータウンNo.七五三遺跡は多摩のミニポンペイと呼ばれている。この遺跡は山津波による土砂崩れで一気に埋まり、おびただしい量の土器や石器とともに玦状耳飾りを伴う墓が発見されている。玦状耳飾りにも、これを副葬する墓と副葬しない墓があり、特定の人物が身に付けたものであろう(図4―26―1)。多摩市内では現在までに多摩ニュータウンNo.一九遺跡(諏訪)、同No.二七遺跡、同No.四五七遺跡、同No.七四〇遺跡など七遺跡から八点の石製玦状耳飾りが出土している。一方、土製玦状耳飾りは多摩ニュータウンNo.七四〇遺跡の一一点を筆頭にNo.八八遺跡、No.一二〇遺跡(唐木田)など七遺跡から一八点が出土しており、中には赤色顔料で赤く塗られたものもある(図4―26―2)。しかし、No.七四〇遺跡に代表されるように、多量に出土しても墓からの出土はなく、石製と同じ形態であっても材質の差が示すように、用途や使用者に何らかの区別があったのかもしれない。
 中期前半になると、玦状耳飾りに代わって耳栓が登場し、後・晩期に盛行する。中央がくびれた鼓状の耳飾りで、耳たぶに孔をあけ、はめ込んだことが、民族例や埋葬人骨、土偶から判明している。後期以降になると滑車形のものが多くなり、多摩市内では中期前半の和田・百草遺跡、多摩ニュータウンNo.四六遺跡、中期後半の向ノ岡遺跡、後・晩期の東寺方遺跡、新堂遺跡の五遺跡から八点が出土している(図4―26―3)。
 このほか、多摩市内出土の特殊な装身具として、和田・百草遺跡出土の円形石製垂飾りがある(図4―26―4(1))。径五・五センチ、厚さ一・一センチ、重さ五二・九グラムで、石材は不明であるが茶褐色の光沢をもち、滑石や硬玉の代用として当地で製作されたものであろう。向ノ岡遺跡では翡翠(ひすい)の垂飾りが発見されている(図4―26―4(2))。全長二センチで、中央に孔があけられている。これらはいずれも中期の遺物である。また、No.二七遺跡では前期と推測される滑石製の管玉と蝋石製の棒状石製品が発見されている。

図4―26 さまざまな第二の道具
1、2:T.N.T.753・754 3-1・2、4-2:向ノ岡 3-3:東寺方 3-4・5、5~8:新堂 4-1、9:和田・百草