土偶は縄文時代早期から晩期まで長期にわたって作られ、現在までの発見数は全国で一万五〇〇〇点以上にのぼっている。都内では前期から晩期までの土偶が約五三〇点出土しているが、多摩市を含めた多摩丘陵は土偶の保有数と形態の上で、西関東では縄文時代を通して主導的な立場を有しており、土偶の質・量ともに他地域を圧倒している。その保有数は約三六〇点にのぼり、稲城市坂浜の多摩ニュータウンNo.九遺跡のように一遺跡で一〇〇点近い大量の土偶を出土する遺跡があるなど、多摩丘陵の優位性と特異性を示している。多摩市内では七遺跡から一六点の土偶が出土しており、時期ごとの在り方をみてみると、中期前半の勝坂式土器様式期に急激に行われた。この時期の土偶は、多摩丘陵形態とも称されるように、腕を斜め下方に垂下した当地域特有の形態をとる。多摩ニュータウンNo.四六遺跡出土の土偶は腹部はほとんど膨らまず切り込みがあり、尻はわずかに出る程度で、どっしりとした短脚をもつ(図4―27―8・9)。和田・百草遺跡出土の土偶は顔面の輪郭がハート形で、平らで柔和な顔立ちをもつ(図4―27―1)。この形態の土偶の分布は現在までのところ、多摩市を含めた多摩丘陵西部とこれに近接する武蔵野台地南部に限られる。なお、この形態の土偶で全形のわかる優品は稲城市坂浜の多摩ニュータウンNo.四七一遺跡で出土している。
図4―27 土偶
1.和田・百草(中期) 2・3.向ノ岡(中期) 4.向ノ岡(後期) 5.東寺方(晩期) 6・7.新堂(晩期) 8・9.T.N.T.46(中期) 10.T.N.T.57(中期) 11・12.T.N.T.520(中期)(8~12=1/3)
中期後半の加曾利E式土器様式期になると、頭部を弱い突出で表現し、腕を十字状に広げ、脚部は省略されるか、わずかに張り出した小型の土偶になる。この形態の土偶は多摩丘陵から武蔵野台地で成立した連弧文土器集団の特徴で、東関東の加曾利E式土器集団とは異なる独自のものである。図4―27―10は多摩ニュータウンNo.五七遺跡出土のもので、頭部をわずかに欠く好資料である。同様の土偶は向ノ岡遺跡(図4―27―2・3)や稲城市境の多摩ニュータウンNo.五二〇遺跡(図4―27―11・12)でも出土している。前述したNo.九遺跡出土の大量の土偶も、すべて連弧文土器集団のものである。
後期前半の堀之内式土器様式期には、降帯による太い眉と鼻をもち、顔面の輪郭がハート形をしたハート形土偶がみられ、向ノ岡遺跡で胴上半部が出土している(図4―27―4)。後期中葉の加曾利B式土器様式期には山形土偶になる。多摩市内では出土していないが、稲城市平尾遺跡で発見されている。晩期になると、東北地方の亀ケ岡式土器様式系の遮光器(しゃこうき)土偶(図4―27―7)、それを在地化した土偶(図4―27―6)が新堂遺跡から出土している。東寺方遺跡の土偶も同様のものである(図4―27―5)。
多摩市内の出土例を含む当地域の集団は常に主体性をもち、自らの意識を反映させた土偶を製作、保有していた。