和田の新堂遺跡は、多摩丘陵では非常に珍しい晩期の墓地である。晩期中葉の安行(あんぎょう)3c式期が中心で、配石墓三二基、配石八基、埋甕二基、立石一基がある。大栗川の形成した沖積微高地にあり、住居跡は未発見である。ここが祭場や墓地であり、住居は別の場所にあったのであろう。中期の墓域は集落の中央広場を中心に形成されるが、晩期になると沖積地に作られるようになる。新堂遺跡では墓域の形成とともに多様な祭式が行われ、土版五点、イノシシその他の動物形土製品、土製勾玉、土製耳飾り、スプーン形土器、小型土器、石剣・石刀七点、石棒五点などが発見されている(図4―26―3~8)。また、配石墓の主軸方向と遺物との関係から、これらの配石墓は北から東を向くグループと西を向くグループに二分できる。前者には土偶や土版、石棒、石刀などが副葬されているのに対し、後者には一基に磨製石斧があるのみで、ほとんど副葬品がなく、明確な差がある。
なお、新堂遺跡の石棒は小型で、頭部に彫刻が施されている。多摩市内で最も古い石棒は和田・百草遺跡出土の中期前半のものである(図4―26―9)。大型で、住居内の祭壇に祭られていたものであろう。向ノ岡遺跡で中期後半、桜ケ丘ゴルフ場内遺跡で後期の石棒が出土している。